越ヶ谷久伊豆神社。越ヶ谷郷七ヶ所の惣鎮守、旧郷社
越ヶ谷久伊豆神社の概要
越ヶ谷久伊豆神社は、越谷市越ヶ谷にある久伊豆神社です。越ヶ谷久伊豆神社の創建年代等は不詳ですが、武蔵七党野与党(のよとう)・私市党(きさいとう)が関わり平安時代末期に創建したものと考えられているといいます。越ヶ谷郷(四町野村・・越ヶ谷宿・大澤町・瓦曽根村・神明下村・谷中村・花田村)七ヶ所の惣鎮守となっており、明治6年には郷社に列格していました
社号 | 久伊豆神社 |
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祭神 | 大国主命、事代主命 |
合祀 | 溝咋姫命、天穂日命・高照姫命 |
境内社 | 八坂社、五前社、稲荷社、諏訪社、御嶽社、三峯社、天満宮、弁財天社、祖霊社、埼玉稲荷社など |
祭日 | - |
住所 | 越谷市越ヶ谷1700 |
備考 | 旧越ヶ谷郷惣鎮守、旧郷社 |
- 久伊豆神社鳥居
- 久伊豆神社社殿
- 久伊豆神社神楽殿
- 南洋神社遥拝殿
- 境内社八坂神社
- 境内社五前社・稲荷社・諏訪社
- 境内社御嶽社・三峯社・天満宮
- 境内社弁財天社
- 境内社祖霊社
- 境内社埼玉稲荷社
- 久伊豆神社藤棚
越ヶ谷久伊豆神社の由緒
越ヶ谷久伊豆神社の創建年代等は不詳ですが、武蔵七党野与党(のよとう)・私市党(きさいとう)が関わり平安時代末期に創建したものと考えられているといいます。越ヶ谷郷(四町野村・・越ヶ谷宿・大澤町・瓦曽根村・神明下村・谷中村・花田村)七ヶ所の惣鎮守となっており、明治6年には郷社に列格していました。
新編武蔵風土記稿による越ヶ谷久伊豆神社の由緒
(四町野村)久伊豆社
天文四年の勧請と云、當村及び越ヶ谷宿・大澤町・瓦曽根村・神明下村・谷中村・花田村七ヶ所の惣鎮守とす、迎攝院の持、下同じ。(新編武蔵風土記稿より)
埼玉県・越谷市掲示による越ヶ谷久伊豆神社の由緒
久伊豆神社は、祭神として大国主命、事代主命など五柱が祀られ、例祭は毎年九月二十八日である。
当社の創立年代は不詳であるが、社伝によると平安末期の創建としい、鎌倉時代には武蔵七党の一つである私市党の崇敬を受けたという。古来、武門の尊崇を集めて栄え、室町時代の応仁元年(一四六七)に伊豆国(静岡県)宇佐見の領主宇佐見三郎重之がこの地を領したとき、鎮守神として太刀を奉納するとともに社殿を再建したと伝えられる。江戸時代には、徳川将軍家代々の信仰が厚かった。
当社は、災除招福、開運出世の神として関東一円はいうまでもなく、全国に崇敬者がある。また、家出をしたり、悪所通いをする者に対して、家族の者が”足止め”といって狛犬の足を結ぶと必ず帰ってくるといわれている。
境内には、県指定史跡となっている幕末の国学者平田篤胤の仮寓跡や、篤胤の門人が奉納したといわれる県指定天然記念物の藤の老樹が枝をひろげている。
なお、当社は昭和五十九年度に県から「ふるさとの森」の指定を受けている。(埼玉県・越谷市掲示より)
「埼玉の神社」による越ヶ谷久伊豆神社の由緒
久伊豆神社が、元荒川流域の南北に分布していることはよく知られている。そして、この範囲は、平安末期の武士団、武蔵七党野与党(のよとう)・私市党(きさいとう)の勢力域とほぼ一致する。特に、当社周辺には、野与党である越ケ谷郷の古志賀谷氏、大相模郷の大相模氏、九条郷の渋江氏の三氏族がおり、当社の創建に野与党がかかわっていたことが推測できる。
鎌倉期には、崎西郡・足立郡に及ぶ領域に大河戸御厨があった。これは、源頼朝が伊勢の神官に寄進した神領で、現在の松伏町大川戸の辺りが中心地であったと考えられている。『吾妻鏡』の建久五年(一一九四)六月三十日条に、「於武蔵国可。大河戸御厨久伊豆宮神人等喧嘩出来之由有其聞」とある。この「久伊豆宮」がどの社に当たるか不明であるが、当社はその有力な候補の一社に挙げられている。
なお、創建について、『風土記稿』四町野村の項には、「久伊豆社 天文四年(一五三五)の勧請と云」と記されている。
江戸期を通して、真言宗越谷山神宮寺迎攝院が当社の別当を務めていた。この寺は、天正十九年(一五九一)に、徳川家康から五石の朱印地を寄進されている。しかし、文化七年(一八一〇)の「四町野村除地書上」に「御朱印高五石迎攝院、正一位久伊豆大明神、右御朱印之内、同院」と記載され、この朱印地が当社に対してのものであったことを示唆している。
当社の神紋は「立葵」である。当時、葵紋を用いることは、一般には禁じられていた。その使用に当たっては、徳川将軍家との関係が考えられる。参道入口前を流れる元荒川対岸に、かつて越ケ谷御殿と呼ばれる館があり、家康・秀忠らが鷹狩りなどの折に、休息所・宿所としていた。記録は残らないものの、恐らく将軍が参拝した際にこの紋を奉納したものであろう。
また、社蔵の文書に享保十八年(一七三三)の宗源宣旨がある。これは、京都の神祇管領吉田兼雄から正一位の神位を授かった時のものである。
本殿は、三間社流造りの壮麗なものである。棟札から、寛政元年(一七八九)に再建されたことが分かる。
当社の社頭は昭和三十年代以降目覚ましく隆盛の一途をたどっている。このことは境内施設の充実に如実に表れている。その主なものには、昭和三十九年の幣殿・拝殿の建設、同四十九年の旧社務所、同五十五年の外拝殿、同五十八年の参集殿、平成二年の新社務所、また、今上天皇の即位記念事業として、同三年の待殿二棟、回廊の新築がある。特筆すべきは、神官の第六十一回式年遷宮の折に拝領した内宮の旧板垣南御門を、平成七年に第三鳥居として建立したことである。(「埼玉の神社」より)
越ヶ谷久伊豆神社所蔵の文化財
- 久伊豆神社の藤(埼玉県指定天然記念物)
- 久伊豆神社社叢(越谷市指定記念物)
- 平田篤胤の仮寓跡(埼玉県指定史跡)
久伊豆神社の藤
この藤は、株廻り七メートル余り、地際から七本にわかれて、高さ二・七メートルの棚に枝を広げています。枝張りは東西二〇メートル、南北三〇メートルほどあり、天保八年(一八三七)越ヶ谷町の住人川鍋国蔵が下総国(現千葉県)流山から樹齢五〇余年の藤を舟で運び、当地に移植したものといわれています。樹齢およそ二〇〇年と推定されます。
花は濃紫色で、枝下一・五メートルほど垂れ、一般に”五尺藤”と呼ばれています。花期は毎年五月初旬が最も見ごろで、毎年このころに「藤まつり」が盛大に開かれます。
フジはマメ科に属する蔓性の落葉樹で、日本、中国、アメリカ、朝鮮に少しずつ異なったものが自生しています。わが国のフジは、大別して、ツルが右巻きで花は小さいが花房は一メートル以上になるノダフジと、左巻きで花は大きいが花房は二〇センチメートル前後のヤマフジとがあります。当神社の藤は前者に属し、基本胤は本州、四国、九州の山地に自生しています。(埼玉県教育委員会・越谷市教育委員会・久伊豆神社掲示より)
越ヶ谷久伊豆神社の周辺図