中町浅間神社。越谷市中町の神社
中町浅間神社の概要
中町浅間神社は、越谷市中町にある浅間神社です。中町浅間神社の創建年代等は不詳ですが、応永32年(1425)銘の懸仏があることから、室町時代には鎮座していたといいます。
社号 | 浅間神社 |
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祭神 | 木花咲耶姫命 |
合祀 | - |
境内社 | 古峰社、笠間稲荷社 |
祭日 | - |
住所 | 越谷市中町7 |
備考 | 旧越谷宿中町鎮守 |
中町浅間神社の由緒
中町浅間神社の創建年代等は不詳ですが、応永32年(1425)銘の懸仏があることから、室町時代には鎮座していたといいます。
新編武蔵風土記稿による中町浅間神社の由緒
(四町野村)浅間社
迎攝院の持(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による中町浅間神社の由緒
当社の創建については明らかでない。しかし、当社には富士山と大日如来の形を打ち出した懸仏が伝わっており、その背面に嵌められた板には「敬白 奉納 冨土山内院御正躰 南無浅間大菩薩 上野介満範 別当 本云応永三十二年(一四二五)乙巳六月一日叡蓮 干時文明八年(一四七六)丙申六月一日、満範孫子、別当中納言阿闇梨良清」の墨書があり、室町期には既に祀られていたことが分かる。また、江戸期には、四丁野村の真言宗越谷山神宮寺迎攝院が当社を管理していたことから、創建にはこの寺がかかわっていた可能性がある。なお、墨書のうち「上野介満範」とは、当時数代にわたり、幸手領田宮城主であった一色氏の一族、一色満範のことと思われる。
江戸初期まで、当社の辺りは四丁野村・花田村・瓦曾根村の土地が入り組んでいた示、慶長年間(一五九六~一六一五)に、後に日光街道となる奥州道が整備されるに及び、越ケ谷宿が設けられた。当初は本町と新町に区切られていたが、当地の土豪会田出羽が徳川家康から下賜された両町にまたがる区画を新たに中町(仲町とも書く)として起こし、自らその名主・問屋となった。その過程で、当社は中町の鎮守となったと思われる。しかし、境内は四丁野村の飛び地として扱われていた。これは、別当迎攝院が四丁野村にあったためと思われる。明治二十二年に飛び地を交換して、中野領分となった。(「埼玉の神社」より)
中町浅間神社所蔵の文化財
- 懸仏
懸仏
中町浅間神社の懸仏は、丸い木型に富士山をかたどった銅板が張られ、裏面に「富士山内院御正躰南無浅間大菩薩 上野介満範」とある。さらにその添書には「本書応永三十二年(一四二五)六月一日、千時文明八年(一四七六)六月一日」という年号と奉納者とみられる「別当中納言阿闍梨良清」の名が記されている。普通この種のものは「御正躰」とよばれているが、円板の上部左右に、懸垂に便利なように獅子歯がつけられ、これを壁面に懸けて安置したことから、懸仏といわれた。こうした懸仏は、市内には他に例がなく、貴重なものと言える。(越谷市教育委員会掲示より)
中町浅間神社の周辺図