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下七左稲荷神社。越谷市七左町の神社

下七左稲荷神社の概要

下七左稲荷神社は、越谷市七左町にある稲荷神社です。下七左稲荷神社は、当地周辺の新田開発が進んだ寛永2年(1625)に創建、新田開発を進めた会田七左衛門政重が関与が推定されていたといいます。江戸期には七左衛門村の鎮守社だったといい、明治39年には村社に列格していました。

下七左稲荷神社
下七左稲荷神社の概要
社号 稲荷神社
祭神 宇気母智命
合祀 -
境内社 金毘羅神、天神社(飛地)
祭日 -
住所 越谷市七左町2-41-45
備考 七左衛門村鎮守、旧村社



下七左稲荷神社の由緒

下七左稲荷神社は、当地周辺の新田開発が進んだ寛永2年(1625)に創建、新田開発を進めた会田七左衛門政重が関与が推定されていたといいます。江戸期には七左衛門村の鎮守社だったといい、明治39年には村社に列格していました。

新編武蔵風土記稿による下七左稲荷神社の由緒

(七左衛門村)稲荷社
村の鎮守とす、真福寺の持なり、下同じ
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真福寺
同(観照院)門徒、寳相山と號す、本尊上に同じ(阿弥陀)(新編武蔵風土記稿より)

境内石碑による下七左稲荷神社の由緒

寛永二年八月十五日創建(一六二五年)
天保十四年九月吉日再建(一八四三年)
明治二十七年二月吉日銅板葺(一八九四年)
明治三十九年四月吉日勅令九十六号第一條指定村社に列格(一九〇六年)
大正十二年九月一日関東大震災拝殿・社務所全壊(一九二三年)
昭和三年十一月吉日拝殿(銅板葺)社務所再建
昭和五十一年七月吉日本殿基礎工事修復
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七左町は、江戸期から肥沃な水田稲作地帯であったが、昭和三十年以降、農耕地整備を行う一方で宅地化が進んだ。鉄道の開通、富士中学校の新設により地域の様子は大きく変容を遂げた。市の区画整理事業を受け、住民は良好な住宅環境の実現を希求し、総合的土地基盤整備の受け入れを決定した。この決定のもと、当神社も境内地の整備を行うと共に新社殿を造営、平成十八年、竣工を終えた。(境内石碑より)

「埼玉の神社」による下七左稲荷神社の由緒

稲荷神社(七左町2-41-45七左衛門字細沼)
七左衛門村は、『風土記稿』によれば寛永のころ(一六二四-四三)に、神明下村の七左衛門が開墾した新田で、当初は新田槐戸村と称していたが、元禄のころ(一六八八-一七〇四)までに七左衛門村と改めたといい、米作中心の農業地域として発展してきた。ただし、会田俊家に伝わる天和三年(一六八三)の「神明縁起」によれば、七左衛門が新田を開いたのは元和年中(一六一五-二四)とされている。
当社は、この七左衛門村の鎮守で、『明細帳』によれば、寛永二年(一六二五)八月十五日の創立であるという。七左衛門は、新田を開くと共に、観照院という寺院を自らが開基となって創立しており、そのことから考えると、当社の創建もまた七左衛門の関与が大きいものと推測される。恐らくは新田開発後の間もないころ、村の発展を願い、五穀豊穣の神である稲荷神を勧請したのが当社の始まりであろう。
江戸時代においては、『風土記稿』七左衛門村の項に、「稲荷社 村の鎮守とす、真福寺持」とあるように、当社の西側にあった真福寺が別当であった。同寺は神仏分離によって廃寺となったが、当社の境内に地蔵堂や法印墓地が残っており、また天保十四年(二八四三)に本殿を再建した際の棟札にも別当として同寺の名が見える。ただし、実際は観照院の僧も祭祀に関与していたらしく、この旨札の裏面には、「遷宮導師観照院十三世法印等道勇日謹言」と記されている。(「埼玉の神社」より)


下七左稲荷神社の周辺図


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