砂原久伊豆神社。旧砂原村東組の鎮守
砂原久伊豆神社の概要
砂原久伊豆神社は、越谷市砂原にある久伊豆神社です。砂原久伊豆神社は、天正元年(1573)に創建したと伝えられ、また野島久伊豆神社の伝承では、野島久伊豆神社の分霊を勧請したのだともいいます。江戸時代後期の地誌新編武蔵風土記稿には記載されていたいものの、砂原村東組の鎮守として祀られてきました。明治45年には、砂原と小曽川の境界近くにあった天神社の鳥居を巡って小曽川久伊豆神社と綱引きが行われ、勝った当社が持ち帰ったとも伝えられています。大正2年に、境内社稲荷社、字東の無格社稲荷社、字前原の無格社稲荷社の三社を合祀、昭和18年に村社に列格していました。
社号 | 久伊豆神社 |
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祭神 | 大己貴命、倉稲魂命 |
相殿 | - |
境内社 | 菅原・榛名・御嶽 |
祭日 | - |
住所 | 越谷市砂原1455 |
備考 | - |
砂原久伊豆神社の由緒
砂原久伊豆神社は、天正元年(1573)に創建したと伝えられ、また野島久伊豆神社の伝承では、野島久伊豆神社の分霊を勧請したのだともいいます。江戸時代後期の地誌新編武蔵風土記稿には記載されていたいものの、砂原村東組の鎮守として祀られてきました。明治45年には、砂原と小曽川の境界近くにあった天神社の鳥居を巡って小曽川久伊豆神社と綱引きが行われ、勝った当社が持ち帰ったとも伝えられています。大正2年に、境内社稲荷社、字東の無格社稲荷社、字前原の無格社稲荷社の三社を合祀、昭和18年に村社に列格していました。
新編武蔵風土記稿による砂原久伊豆神社の由緒
(砂原村)
聖動院
新義眞言宗、末田村金剛院門徒、砂原山と號す、不動を本尊とす、
稲荷社
天神社
不動堂(新編武蔵風土記稿より)
境内掲示による砂原久伊豆神社の由緒
砂原久伊豆神社は、主祭神が大黒様として知られ、出雲神話の因幡の白兎の主役として親しまれている大己貴命(大国主命の別称)で合祀神が稲荷様として知られる倉稲魂命です。
創建年代は戦国武将織田信長が、征夷大将軍の足利義明を京都から追放(室町幕府滅亡)した天正元年(一五七三)のことであるという。
往時の砂原地区の祭祀状況は、前原は稲荷神社、東組は久伊豆神社の氏子という具合に鎮守の社を別にしていたが、大正二年(一九一三)に前原の稲荷神社を合祀し、砂原全体で久伊豆神社を祀るという形になりました。
当社の氏子区域は、昔から集落を単位とした、西組(前原)、中組、東組の三班に分け、年番制度で当番を決め、幟の揚げ降ろしや例大祭(祭礼の世話などに当っています。
また、当社の維持管理運営は氏子からの『初穂料』や【志納金】でまかなわれており、秋の祭礼(里神楽)をはじめ、年間を通じ行われる様々な祈念行事や神社の維持管理に使われています。
なお、砂原の地名は、川に沿った砂地を意味すると言われ、開村以来、元荒川沿いに田畑の広がる農業地帯として、米や野菜を生産してきました。(境内掲示より)
「埼玉の神社」による砂原久伊豆神社の由緒
久伊豆神社<越谷市砂原一四五五(砂原字東)>
当社は元荒川を背にして祀られている。『明細帳』によれば、その創建は天正元年(一五七三)九月二十八日のことであるという。
『風土記稿』砂原村の項には、当社は見えず、隣村の小曾川村の項に「久伊豆社 当村及び砂原村の鎮守とす、古へ爰は砂原村の地内なりと云」と載り、化政期(一八〇四-三〇)には、隣の小曾川村にある久伊豆社を砂原村と小曾川村の鎮守として崇めていたことがわかる。しかし、この時期に当社が存在しなかったことは考え難く、何かの事情で記載を漏らしたものであろう。
往時の祭祀状況は、『風土記稿』の聖動院境内に見える不動堂が現在当社の境内に祀られていることから考えて、聖動院が別当としてかかわっていたと推測される。聖動院は本尊を不動明王とする真言宗の寺院であったが、明治六年に廃寺となった。『郡村誌』には字東にあったと記されており、当社の近くに本堂を構えていたものであろう。また、社鞍の鰐口には「奉納砂原久伊豆大明神御広前 于時天保十二辛丑年(一八四一)十二月吉日」「願主右村名主松沢兵四郎」「砂原村東組氏子中家数卅七軒」などと見え、当時は東組が氏子であった。
大正二年に境内社の稲荷社と、字東の無格社稲荷社、字前原の無格社稲荷社の三社を合祀した。また、当社は、初め無格社であったが、昭和十八年に村社となった。(「埼玉の神社」より)
砂原久伊豆神社の周辺図