栢間神明神社。延喜式神名帳宮目神社の論社、旧県社
栢間神明神社の概要
栢間神明神社は、久喜市上栢間にある神社です。栢間神明神社の創建年代等は不詳ながら、景行天皇の御宇の創建とも伝えられ、社の南西には武蔵国造笠原直使主との関わりが推定される天王山塚古墳があります。また、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載される宮目神社に比定される古社です。江戸期には、栢間・新堀・三箇・戸ヶ崎・小林の総鎮守として領主内藤四郎左衛門正成の崇敬を受けていました。明治維新後の社格制定に際して明治6年村社に列格、昭和16年郷社に、昭和20年県社に昇格していました。参道は500mにも及び、社叢は埼玉県天然記念物に指定されています。
社号 | 神明神社 |
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祭神 | 天照皇大神、豊宇気毘売神 |
相殿 | - |
境内社 | 三嶽神社、八幡宮、稲荷神社、御嶽山八海山三笠山大神 |
祭日 | 鎮火祭1月15日、春祭4月11日、献灯祭7月25日 |
住所 | 久喜市上栢間3366 |
備考 | - |
栢間神明神社の由緒
栢間神明神社の創建年代等は不詳ながら、景行天皇の御宇の創建とも伝えられ、社の南西には武蔵国造笠原直使主との関わりが推定される天王山塚古墳があります。また、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載される宮目神社に比定される古社です。江戸期には、栢間・新堀・三箇・戸ヶ崎・小林の総鎮守として領主内藤四郎左衛門正成の崇敬を受けていました。明治維新後の社格制定に際して明治6年村社に列格、昭和16年郷社に、昭和20年県社に昇格していました。
境内掲示による栢間神明神社の由緒
神明神社
神明神社の創立は、社伝に景行天皇の時といわれる。祭神は、古くは天照皇大神、豊宇気毘売神、大宮売神の三神であったが、現在は天照皇大神、豊宇気毘売神の二神を祭っており、伊勢神宮の分霊のため、近年まで「神明神社」と呼んでいた。
江戸時代、徳川家譜代の家臣内藤四郎左衛門正成が、栢間および新堀、三箇、戸ヶ崎、小林の旧五ヶ村を領してから、五か村の総鎮守として以来、歴代の領主が厚く崇敬した。
明治六年に村社となり、昭和十六年郷社に昇格し、「神明神社」と改称、さらに昭和二十年に県社となった。
本殿は、天保八年(一八三五)に建てられたもので、昭和三十八年に屋根を改修している。
毎年一月十五日には、火防除と呼ばれる「鎮火祭」と、その火で粥を煮てその年の作物の豊凶を占う「筒粥」の神事が行われる。筒粥の神事は、大鍋に米三合水六升を入れ、葦の節のないところを長さ七寸位に切り、十八本を簀状にし麻で結ぶ。一本一本の葦に米粒が入る数によって占い、多くの米粒がはいったものほど豊作とされている。(久喜市教育委員会掲示より)
新編武蔵風土記稿による栢間神明神社の由緒
(栢間村附持添新田)
神明社
村の鎮守、正月十四日筒粥の神事を行ひて年の豊凶を占を以例祭とす、妙法院持、(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による栢間神明神社の由緒
神明神社<菖蒲町上栢間三三六六(上栢間字本村)>
栢間は、元荒川左岸の台地とそれに続く低地に位置する。
当社参道入口の南西にある前方後円墳の天王山塚古墳(県指定史跡)は行田の「埼玉古墳群」に連なるものとされ、武蔵国造笠原直使主とのかかわりが推測されている。
社伝によれば、当社は景行天皇の御宇の創建で、『延喜式』神名帳に埼玉郡四座の一つとして記される宮目神社は当社のことであるといぅ。また、古くは大宮賣神・天照皇大神・豊受大神の三柱を祭神として神明宮と称していたが、その後祭神を天照皇大神・豊受大神の二柱に改め、伊勢神宮の分霊であるが故に神明両社と称するようになったとも伝えられる。現在の本殿は棟札写しによれば文政元年(一八一八) に建造されたもので、神明造りの本殿二棟が並立しており、向かって左が天照皇大神を祀る内宮、右が豊受大神を杷る外宮である。
明治六年に村社となり、昭和十六年には神明両社の社号を神明神社と改めて郷社に昇格し、更に昭和二十年には県社に昇格した。
社家の加藤家は、天正年間(一五七三-九二)以来当社に奉仕を続けている由緒ある家柄で、当初は禰宜であったが、寛永二年(一六二五)に当山派の修験となり刑宝院(のち明宝院と改める)と号した。(「埼玉の神社」より)
栢間神明神社所蔵の文化財
- 神明神社の社叢(埼玉県指定天然記念物)
栢間神明神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」