吉見神社。熊谷市相上の神社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

吉見神社。旧上吉見領の総鎮守

吉見神社の概要

吉見神社は、吉見神社の創建年代等は不詳ながら、景行天皇五十六年に御諸別王が当地を巡視した折、田野が開かれず不毛の地であることを嘆いて、多くの里人を移して多里郡(大里郡)を設置、天照大神ゆかりの筬を神体として天照大神を祀ったとも、御諸別王が関東下向の時、こんこんと泉が湧き出し、数万町の水田が日ならずして成ったことから天照大神を斎い祀ったとも伝えられます。荘園が全国的に広がった平安時代には、武州恩田御厨と称される伊勢神宮の神領であったことから、このころに神明社として祀られたのではないかとも推定され、上吉見領23ヶ村の総鎮守として祀られていたものの、応永(13941-1428)の戦乱により相上・玉作・箕輪・甲山・小八ツ林の鎮守となり、江戸期には相上のみの鎮守となっていました。明治17年郷社に列格していました。

吉見神社
吉見神社の概要
社号 吉見神社
祭神 天照大神
相殿 -
境内社 天神・東宮・稲荷など36社
祭日 -
住所 熊谷市相上71
備考 -



吉見神社の由緒

吉見神社の創建年代等は不詳ながら、景行天皇五十六年に御諸別王が当地を巡視した折、田野が開かれず不毛の地であることを嘆いて、多くの里人を移して多里郡(大里郡)を設置、天照大神ゆかりの筬を神体として天照大神を祀ったとも、御諸別王が関東下向の時、こんこんと泉が湧き出し、数万町の水田が日ならずして成ったことから天照大神を斎い祀ったとも伝えられます。荘園が全国的に広がった平安時代には、武州恩田御厨と称される伊勢神宮の神領であったことから、このころに神明社として祀られたのではないかとも推定され、上吉見領23ヶ村の総鎮守として祀られていたものの、応永(13941-1428)の戦乱により相上・玉作・箕輪・甲山・小八ツ林の鎮守となり、江戸期には相上のみの鎮守となっていました。

新編武蔵風土記稿による吉見神社の由緒

(相上村)
神明社
當社古へは上吉見領の總鎮守なりしが、各村へ鎮守を勧請して、今は村内のみの鎮守とせり、社の傍に纔の沼あり、神龍潜み住と云傳ふ、
神主須永大内蔵。入間郡塚越村雅楽が配下なり。(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による吉見神社の由緒

吉見神社<大里村相上一(相上字宮前区)>
当社は『風土記稿』に神明社と載り「古へは上吉見領の総鎮守なりしが、名村へ鎮守を勧請して、今は村内のみの鎮守とせり、社の傍に纔の沼あり、神竜潜み住と言伝ふ、神主須永大内蔵 入間郡塚越村勝雅楽が配下なり」と説明している。
上吉見領とは『風土記稿』に見える領名で、村岡・手島・小泉・江川下久保・屈戸・津田・津田新田・相上・玉作・小八ツ林・箕輪・甲山・向谷・高本・沼黒・吉所敷・中曾根・和田・上恩田・中恩田・下恩田・原新田・平塚新田の二三か村である。
この二三か村は、現在の大里村を中心に熊谷市と江南村の一部に当たり、当社はこのほぼ中央に位置する相上にある。
ここで注目すべき点は、二三か村のうちに上・中・下の恩田があることで、この恩田は、鎌倉円覚寺正統院文書貞和五年(一三四九)のものに「武州恩田御厨」とあり伊勢神宮の神領であったことが知られる。御厨は、平安時代に荘園が全国的に広がり、公的な神宮の財源であった神郡・神戸・神田の実が失われ、神宮の私経済的な一種の荘園として発達したもので、年貢として上分米を神宮に納め、あるいは土地の産物を供進した。この御厨で伊勢神宮の分祀を祀ることは広く行われている。当社もこの例の一つとして天照大神を祀ったと考えられる。なお、中恩田には豊受大神を祀る神明社があった。
当社には、創建を物語る文書が何点か伝えられている。このうちの一つに、和銅六年(七一三)の伝として、景行天皇五十六年に御諸別王が当地を巡視した折、田野が開かれず不毛の地であることを嘆いて、倭国・山代国・川内国・伊賀国・伊勢国の多くの里人を移して、多里郡(大里郡)を置き、後に豊かな地となった奉賽として、太古に武夷鳥命が高天原から持ち降ったという、天照大神ゆかりの筬を神体として天照大神を祀り、以来、御諸別王の子孫が代々神主として奉仕している、とある、現宮司須長二男家はこの末である。
また、別の文書には、御諸別王が関東下向の時、当地を開こうとして天照大神に祈誓したところ、こんこんと泉が湧き出し、数万町の水田が日ならずして成った、ここに天照大神を斎い祀った、とある。
このように、当社の創建を語る時には、必ず天照大神を祀って水田を開き豊かな土地となる話が基になっている。これは、伊勢御厨の設定につながる伝承と言えるであろう。
『大里郡神社誌』は、大里村玉作の須藤開邦家文書として『当社は上吉見領の総鎮守であったが、応永(一三九四-一四二八)の戦乱により神領を失い、天正のころ(一五七三―九二)には旧五か村と呼ぶ相上・玉作・箕輪・甲山・小八ツ林の鎮守となった』と載せている。ちなみに、旧神領は七五〇貫の地であったという。(「埼玉の神社」より)


吉見神社所蔵の文化財

  • 相上神楽(大里村指定無形民俗文化財)

相上神楽

相上神楽の起源は、江戸時代中期、天保六年(一八三五年)八月にかんとうちほうを襲った嵐により、荒川や吉見神社の背後を流れる和田吉野川の堤防がまさに結界しようとしていた。その時、村人が吉見神社に祈願したところ災害を免れることができた。こののち村人が神楽殿を建設し奉賽したのが始めと言われている。
相上神楽は、坂戸市の大宮住吉神楽の系統に属し、曲目は、国取、三人和合、氷の川、岩戸開等であったが、昭和四十年代後半に奉楽されたのを最後に途絶えてしまった。
そして、平静七年相上地区の住民により神楽を復活させようと相上神楽保存会が設立され、子供たちを中心に伝承者より神楽舞や囃子を受け継ぎ、大祭のおりに奉楽している。(大里村教育委員会掲示より)

吉見神社の周辺図