東別府神社。東別府城内に別府氏の氏神春日大社を勧請
東別府神社の概要
東別府神社は、熊谷市東別府にある神社です。東別府神社の創建年代等は不詳ながら、当地は別府太郎義家が居城として築いた東別府城の跡で、別府氏(藤原氏)の氏神として奈良の春日神社を勧請、天正18年(1590)の落城まで、城の鎮守だったといいます。明治42年に大字埋鳥の村社榛名神社を合祀、東別府神社と改称したといいます。
社号 | 東別府神社 |
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祭神 | - |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | - |
住所 | 熊谷市東別府778 |
備考 | - |
東別府神社の由緒
東別府神社の創建年代等は不詳ながら、当地は別府太郎義家が居城として築いた東別府城の跡で、別府氏(藤原氏)の氏神として奈良の春日神社を勧請、天正18年(1590)の落城まで、城の鎮守だったといいます。明治42年に大字埋鳥の村社榛名神社を合祀、東別府神社と改称したといいます。
新編武蔵風土記稿による東別府神社の由緒
(東別府村)
榛名権現社
村の鎮守とす、観蔵寺持、下同じ
春日社
古は城の鎮守なりと云、今に古城跡にありて、稲荷を合祀す、按に當社は神名帳に出せる幡羅郡白髪神社なる由、式内神社考に見えたれど、當社にては此傳なし、又近村東方村熊野社をも、式内白髪神社なりと云説あれど、二社共に明證はなし。
稲荷社
八幡社
共に福泉寺持(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による東別府神社の由緒
東別府神社(熊谷市東別府七七七・七七八(東別府字北曲輪))
別府という地名の由来については、二説あり、平安末期ごろ荘園の周辺を別官符(追加開墾状)によって開墾したことによるとも、国府の支庁である別府が置かれたことによるともいう。いずれにしても、この地は古くから開発された所であり、そのためか、当社を式内社とする説もあったことが『風土記稿』の記事から知られる。
当社は元来春日社と称し、その境内は、別府太郎義家が居城として築いた東別府城の跡にあり、周りを高さ二メートルの土塁と幅三メートルの豪に囲まれている。別府氏は、藤原鎌足の後裔であるところから氏神として奈良の春日神社を勧請したのが当社の始まりで、天正十八年(一五九〇)の落城まで、代々城の鎮守として崇敬された。その後、当社は、当山派修験の勧蔵寺(後の宮本院)持ちとなり、三石が除地され、享保十九年(一七三四)には宗源宣旨を受けて正一位春日大明神と号した。神仏分離によって寺の管理を離れた当社は、更に、明治四十二年に大字埋鳥の村社榛名神社を合祀し、ここに東別府神社と改称した。
また、明治維新から明治四十二年に東別府神社となるまで、春日稲荷神社と称していたように、当社にはいつのころからか稲荷社が合祀されていた。宝暦年中(一七五一-六四)、当社の再建を機に、稲荷社を元地に戻そうという動きが氏子の間に起ったが、神意を伺った結果、元地に戻すのを取りやめたという『武蔵志』の話は興味深い。(「埼玉の神社」より)
東別府神社所蔵の文化財
- 別府城跡(埼玉県指定史跡)
別府城跡
別府氏は、成田氏系図によると、成田助高の二男次郎行高が別府に住んでから、その子太郎能幸は東別府に、二郎行助が西別府に数代相対して領知した。
この城跡は、東別府家の館として、東西南北ともに約一町(百余メートル)四方で、周囲には巾約二〜三メートルの横濠(現在は西、北、東側に残っている)をめぐらし内側に高さ約二メートルの土塁を築き、中世の武士の館跡として典型的な形をみることができる。
太郎能幸に初まった東別府家は、それから十一代目の尾張守長清まで続いたが、天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉の北条氏攻略に際し、敗軍側についたため家禄を失ってしまったので、この東別府城も廃城になってしまった。(埼玉県・熊谷市教育委員会掲示より)
新編武蔵風土記稿による別府城跡について
(東別府村)古城跡
村の中程にて今も四方に土居の跡残れり、構への廣さ東西四十間、南北三十間許、此内に春日の社あり、前に出せり、社地の外は年貢地なり、傳へ云當所は別府次郎行隆より、尾張守長清まで數代住せしが、其子三郎左衛門顕清、天正年中忍城に籠り、家禄を失ひしより廃すと云、成田分限帳に永五百貫文別府尾張守長吉と載たるは、則此長清なりと傳れば、其頃の家禄は推て知ばし。(新編武蔵風土記稿より)
東別府神社の周辺図