登由宇気神社。村岡村の鎮守として勧請した神明社
登由宇気神社の概要
登由宇気神社は、熊谷市村岡にある神社です。登由宇気神社の創建年代等は不詳ながら、応永(13941-1428)の戦乱に際して、村岡村の鎮守社として神明社が祀られたのではないかといいます。明治維新後社号を改め、明治4年村社に列格していました。
社号 | 登由宇気神社 |
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祭神 | 登由宇気比売命 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | - |
住所 | 熊谷市村岡851-1 |
備考 | - |
登由宇気神社の由緒
登由宇気神社の創建年代等は不詳ながら、応永(13941-1428)の戦乱に際して、村岡村の鎮守社として神明社が祀られたのではないかといいます。明治維新後社号を改め、明治4年村社に列格していました。
新編武蔵風土記稿による登由宇気神社の由緒
(村岡村)
神明社
神明社 村の鎮守とす、宝蔵寺持(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による登由宇気神社の由緒
登由宇気神社<熊谷市村岡八五四(村岡字下出口)>
村岡は群れ岡の意味で、小さな岡が多数あったことから付けられた地名で、平安中期には平良文の子孫がここに荘園を開き村岡五郎と称した。当地は『法然上人絵伝』に、建永元年(一二〇六)の村岡の市に、熊谷蓮生房直美が、大往生を遂げることを告げた高札を立てるとあり、当時は、熊谷よりも開けた所であったことがうかがえる。
村岡村は、古くは上吉見領二三か村の一つであり、相上の吉見神社を鎮守としていた。吉見神社は、『風土記稿』に神明社と載り「古へは吉見領の総鎮守なりしが、各村へ鎮守を勧請して、今は村内のみの鎮守とせり」とある。同社の伝えによると、この総鎮守から村内鎮守への変革は、当地が応永期(一三九四-一四二八)の戦乱に巻き込まれたためであるとしている。なお、上吉見領には、伊勢神領である「恩田御厨」があった。
当社は『風土記稿』に「神明社 村の鎮守とす、宝蔵寺持」とあり宝蔵寺の開山は貫海といい、応永十九年(一四一二)に没している。
これらから考えると、当社は応永の戦乱の後、村が整えられ、かつての総鎮守の関係か又は恩田御厨の関係により伊勢神宮を勧請したものであろう。現社名は、明治初期の改称である。
祀職は、明治維新により別当宝蔵寺が還俗し、村田貞義と名乗って神職となり、以後同家が代々奉仕している。(「埼玉の神社」より)
登由宇気神社の周辺図