奈良神社。当地を開拓した奈良別命を祀る社、延喜式内社
奈良神社の概要
奈良神社は、熊谷市中奈良にある神社です。奈良神社は、奈良時代に下野国の国造の任を終えた奈良別命が当地を開拓、奈良別命が亡くなった後に郷民その徳を偲んで建立したといい、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載される古社だといいます。その後、理由不詳ながら熊野社と改称(或いは境内社へ変更)、慶安2年(1649)社領20石の御朱印状を拝領したといいます。幕末になり、旺盛復古の思想に伴い、社号を奈良神社と改めています。
社号 | 奈良神社 |
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祭神 | 奈良別命 |
相殿 | - |
境内社 | 諏訪大社、愛宕神社、諏訪社、年行社、神明大神社、箱根神社、浅間社、八坂神社、伊奈利神社 |
祭日 | - |
住所 | 熊谷市中奈良1969 |
備考 | - |
奈良神社の由緒
奈良神社は、奈良時代に下野国の国造の任を終えた奈良別命が当地を開拓、奈良別命が亡くなった後に郷民その徳を偲んで建立したといい、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載される古社だといいます。その後、理由不詳ながら熊野社と改称(或いは境内社へ変更)、慶安2年(1649)社領20石の御朱印状を拝領したといいます。幕末になり、旺盛復古の思想に伴い、社号を奈良神社と改めています。
新編武蔵風土記稿による奈良神社の由緒
(中奈良村)熊野社
奈良四村の惣鎮守なり、本地彌陀・薬師・観音を安ず、古は修験圓蔵坊が持なりしが、成田氏下野國烏山に移る時、圓蔵坊も随て移り、古記録も彼地へ携去し故、當時の傳詳ならず、今は長慶寺の持となる、社内に奈良神社を合せ祀る、奈良神社は神名帳當郡四座の一なり、想に舊章衰廃の後、熊野三社を合祀し、郤て地主神を壓せしなるか、又別に奈良神社ありしが、破壊に及て此社へ遷せしかなるべし、何様官社なれば、自徐の社と混ずべからず、故に次條別に神社の目を立つ、見るもの誤て二所とすることなかれ。
奈良神社
【神名帳】幡羅郡小社四座の一なり、今配祀する熊野社地平坦の地にて、喬木もなければ古跡とも思はれず何様變革ありしなるべけれど傳を失へり、祭神詳ならず、本地不動の像を安ず、是中絶し神職退轉の後に、別當寺の習合せし態ならん。
末社。稲荷二宇、天神、金山。以上皆熊野の末社なるべし。
神楽殿。稲荷社、富引稲荷と號す、村民持。(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による奈良神社の由緒
奈良神社(熊谷市中奈良一九六九(中奈良寺寺家))
当社が鎮座する奈良の地は、利根川と荒川のほぼ中間に位置し、その地名は当地一帯が平坦部であることに由来する。また、当社の南方約ニキロメートルのところには、古代の官道である東山道(後の中山道)が通る。
社伝によると当社は、下野国の国造の任を終えた奈良別命が、武蔵野の尾花の原(当地)を開いて美田となし、奈良郷の基を築いたことから、命が亡くなると郷民がその徳を偲んで建立し、祀ったものであるといい、また、当社東北一キロメートル所にある横塚山と呼ばれる前方後円墳は、奈良別命の墓所であるという伝承がある。ちなみに、奈良別命については『国造本紀』に、仁徳天皇の御世、崇神天皇の第一皇子豊城入彦命四世孫に当たる奈良別命が初めて下野国の国造に任命されたことが記されている。
『文徳実録』の嘉祥三年(八五〇)五月十九日条によると、当社は先の慶雲二年(七〇五)、陸奥国の蝦夷反乱に際し神威を発揮したことにより、式内社に列したとある。これは、武蔵国が東海道所属となる宝亀二年(七七一)以前は東山道所属であったため、兵士の集結所が北武蔵に設けられていたこととかかわりがあると思われる。また、古代、東北地方の支配拠点として築かれた多賀城(宮城県多賀城)の城跡出土木簡には、当地を含む幡羅郡一帯から兵糧と思われる米が搬入された記録があることも参考になろう。
古代、当社を奉斎した氏族については、恐らく、当地一帯を支配した奈良氏であると考えられ、『成田氏系図』によると、同氏は近隣の成田・別府・玉井氏などと並ぶ関東の名族の一つであった。
中世、当社は全国的に隆盛した熊野信仰の影響を受け、社名を奈良神社から熊野神社に変更した。この社名変更の理由について『風土記稿』は、奈良神社は『延喜式』神名帳に収載される神社であるが、衰退して熊野神社を合祀したためか、あるいは、奈良神社が別の地にあって、それが破壊されたため熊野神社に合祀されたためかのいずれかであろうと記載している。恐らく、古代に創建された奈良神社は廃絶したのではなく、中世、その時流に合った熊野信仰を収容することにより社名を変えて存続したのであろう。
戦国期、当社の祭祀を行ったのは、幸手の不動院配下の年行事職を務める本山派修験円蔵坊で、同坊は、忍城主成田氏所領のうち、騎西、幡羅を檀那場としていた。しかし、円蔵坊は長く続かず退転したため元空坊がその坊跡を継いだ。なお、円蔵坊の退転については、天正十八年(一五九〇)に後北条氏に与力した成田氏が豊臣秀吉に降ったことにより、従来の庇護者である成田氏と共に下野国烏山に移転したとする説と、法憲を犯す不届きがあったため檀那場を追放されたとする説があるが、『風土記稿』年行事社の項には、円蔵坊の亡霊が当地の村人に祟りをなすので「無私神」として祀り年行事社を建立したとあることから、恐らく円蔵坊は、成田氏に随伴して下野国に移転したのでなく、不届きから誅せられたものと思われる。
円蔵坊の跡を継いだ元空坊も長くは続かず、更にその後に僧長慶が入って長慶寺を建立し、以来同寺が江戸期を通じて当社の別当を務めた。幸手の旧不動院所蔵の天正十九年(一五九一)の御教書によると、聖護院門跡道澄と関東の新しい為政者である徳川家康との間で、関東の修験については、後北条氏以来の地位を安堵することを約束していることから、長慶寺も従来の年行事職を引き継ぎ、天台宗本山派修験を務めたものと思われる。更にこの時期、長慶寺は新たに紀伊国の真言宗高野山浄心院の末寺となり、慶安二年(一六四九)には、徳川家康により寺領二〇石が寄進された。
江戸後期になると、中世以来永く熊野神社としてきた当社は、復古の思想興隆により、社名を古代の奈良神社に復した。当社拝殿内に掛かる天保年間(一八三〇-四四)の「武蔵国四十四坐神 式内社」の額は白川家門人の中村平兵衛ほか四名が奉納したもので、これらの者たちも社名復古に一役買ったものと思われる。
明治期に入ると、当社本殿の熊野神の本地である弥陀・薬師・観音の三尊は、長慶寺に移され、代わって神鏡が奉安された。(「埼玉の神社」より)
奈良神社の周辺図