長慶寺。忍領三十四所、幡羅郡八十八ヶ所霊場
長慶寺の概要
高野山真言宗寺院の長慶寺は、摩尼山熊山院と号します。長慶寺の創建年代は不詳ながら、かつては修験宗で圓蔵坊と号していたといい、天正18年に圓蔵坊が成田氏に従って退転、僧長慶が真言宗に改めたといいます。慶安2年(1649)寺領20石の御朱印状を拝領していました。忍領三十四所25番、幡羅郡八十八ヶ所霊場5番です。
山号 | 摩尼山 |
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院号 | 熊山院 |
寺号 | 長慶寺 |
住所 | 熊谷市中奈良1995 |
宗派 | 高野山真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
長慶寺の縁起
長慶寺の創建年代は不詳ながら、かつては修験宗で圓蔵坊と号していたといい、天正18年に圓蔵坊が成田氏に従って退転、僧長慶が真言宗に改めたといいます。慶安2年(1649)寺領20石の御朱印状を拝領していました。
新編武蔵風土記稿による長慶寺の縁起
(中奈良村)長慶寺
古義真言宗、紀伊國高野山清浄心院末、摩尼山熊山院南之坊と號す、此坊號は隣村上奈良村の内に、慶安以前まで東之坊西之坊と唱へし二寺(註:東光寺と妙音寺)あれば、夫に對して呼し號なるべし、寺領二十石は慶安二年八月廿四日御朱印を附せらる相傳ふ當寺は古修験地なりしが、前にいへる如く、天正十八年圓蔵坊と云僧、成田氏に従ひ、下野國に移りし後、長慶と云僧、今の宗に改め造立せりと云、又榛澤郡黒田村萬光寺の傳に異説あり、かの圓蔵坊法義を背きて退轉す、依て跡年行事職を元空に命ぜられしと云、其時聖護院よりあたへし慶長三年九月廿六日の文書に、先圓蔵坊事、對守護所依不相届子細有之、彼知行兩郡之檀那衆分等之儀被召放訖、然に只今懇望候間、被仰付元空者也云々、又同き十四年五月十七日の文に、對元空武州圓蔵坊事被仰付、御奉公無其紛之條云々、何れも宛所に奈良圓蔵坊とあれば、證跡明確なり、寺傳は諱てかかる説をなせしならん、元空坊號を継て其頃當村に住し、後黒田村へ移しにより、坊宇以下其まま長慶譲受て、今の宗の一寺とせしにや、この僧は延寶四年寂と云、本尊地蔵を安ぜり、今所蔵の文書は修験たりし時のものにて、圓蔵坊より譲與しものならん、其文に(文書面省略)
鐘楼。享保三年九月十五日鋳造の鐘をかく。(新編武蔵風土記稿より)
長慶寺の周辺図