成沢赤城神社。熊谷市成沢の神社

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成沢赤城神社。平安末期頃の勧請と推定される社

成沢赤城神社の概要

成沢赤城神社は、熊谷市成沢にある赤城神社です。成沢赤城神社の創建年代等は不詳ながら、荒川中流右岸が平安末期から上野国新田氏の所領だったことから、平安末期頃に勧請されたのではないかと推測されています。江戸期には成沢村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際して明治7年村社に列格、字根岸の熊野神社、字宿浦の天神社、神力寺境内の稲荷神社の三社を合祀しています。

成沢赤城神社
成沢赤城神社の概要
社号 赤城神社
祭神 大己貴命、豊城入彦命
相殿 -
境内社 津島神社、三峰神社、天満宮・山口神社・熊野愛宕・琴平神社・大雷神社・稲荷神社合殿
祭日 お日待4月15日、天王様7月24日、お日待10月15日
住所 熊谷市成沢237
備考 -



成沢赤城神社の由緒

成沢赤城神社の創建年代等は不詳ながら、荒川中流右岸が平安末期から上野国新田氏の所領だったことから、平安末期頃に勧請されたのではないかと推測されています。江戸期には成沢村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際して明治7年村社に列格、字根岸の熊野神社、字宿浦の天神社、神力寺境内の稲荷神社の三社を合祀しています。

境内掲示による成沢赤城神社の由緒

赤城神社
赤城神社の祭神は大己貴命・豊城入彦命であるが、いい伝えによると大山祇命と称したこともある。
当社の神体は、金箔の木像である。本殿は大破風向千鳥軒唐破風欅材屋根鱗葺の造りで末社には、熊野神社、天神社、稲荷神社、津島神社がある。
古老の説によると、「本社の創立年代は不詳であるが鎌倉時代以前といわれ、武州深谷の城主上杉左兵衛憲盛の信仰少なからず、当時は相応の社領を有し社頭の風致等見るもが多かった。」といわれている。
なお、末社の熊野神社は本字の根岸に、天神社は字宿浦に鎮座し、稲荷神社は神力寺境内に鎮座のところ、明治維新の際赤城神社境内に移転したものである。
末社の津島神社の大祭は、毎年七月二十四日「天のう様」で、みこし、屋台などが出て大変にぎやかである。(埼玉県掲示より)

新編武蔵風土記稿による成沢赤城神社の由緒

(成澤村)
赤城社
村の鎮守なり、傍の菴室を赤城庵と號し、當社の進退をなせり、
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熊野社
赤城庵持、
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天神社
静簡院
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稲荷社
神力寺持なり、人神力稲荷と號す、(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による成沢赤城神社の由緒

赤城神社<江南町成沢五四六-一(成沢字十王嶽)>
当地を含む荒川中流右岸の辺りは、平安末期のころから上野国新田氏の所領で、貞応三年(一二二四)一月二十九日に新田義兼の妻新田尼から孫の岩松時兼に譲り渡され、以後新田岩松氏の所領となった。
創建年代は明らかではないが、上野国との結びつきの深かった時代に新田氏の崇敬した赤城神社が勧請されたことが推測される。
室町期の当地の状況を伝えるものとして、成沢氏と静簡院がある。成沢氏は「成田分限帳」に成沢藤三郎の名が見えるので知られ、当時忍城主の成田氏の家人であることから、この地域も成田氏の支配下にあったと見られる。また、静簡院は、深谷域主上杉憲盛の開基と伝え、憲盛は天正三年(一五七五)に没しており、このころは上杉氏の支配に属していたことがわかる。当時、この成沢氏や上杉氏によって当社も崇敬を受けたものであろう。
『風土記稿』には「赤誠社 村の鎮守なり、傍の庵室を赤城庵と号し、当社の進退をなせし」とある。これに見える赤城庵は修験と思われるが、詳細は明らかではない。文政十一年(一八二八)には、神祇伯の執奏により正一位に叙された。
明治初年の社格制定に際しては村社となり、同じころに字根岸の熊野神社、字宿浦の天神社、神力寺境内の稲荷神社の三社を合祀した。
内陣には、室町期作と伝える木造赤城大明神座像を安置している。(「埼玉の神社」より)


成沢赤城神社の周辺図