静簡院。深谷城主上杉三郎憲盛開基、関東三十三観音霊場
静簡院の概要
曹洞宗寺院の静簡院は、龍谷山成澤寺と号します。静簡院の創建年代等は不詳ながら、かつては浄閑寺と号する天台宗寺院だったといいます。その後衰微していた当寺を、深谷城主上杉三郎憲盛(伴松軒要山静簡大居士)が曹洞宗寺院に改めて静簡院と改称、靈因祖源(天正14年1586年寂)が開山しています。関東三十三観音霊場11番です。
山号 | 龍谷山 |
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院号 | 静簡院 |
寺号 | 成澤寺 |
本尊 | 釋迦牟尼佛像 |
住所 | 熊谷市成沢1125 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
静簡院の縁起
静簡院の創建年代等は不詳ながら、かつては浄閑寺と号する天台宗寺院だったといいます。その後衰微していた当寺を、深谷城主上杉三郎憲盛(伴松軒要山静簡大居士)が曹洞宗寺院に改めて静簡院と改称、靈因祖源(天正14年1586年寂)が開山しています。
境内掲示による静簡院の縁起
靜簡院
靜簡院は、曹洞宗の寺で龍谷山成澤寺靜簡院と称し、本尊は釋迦如来で両脇仏に文殊菩薩・普賢菩薩を安置し、内陣には四天王・大間には十六羅漢の額の彫刻がある。
古くは天台宗の寺で浄閑寺と称し、当地では有力な寺であったが一時衰退した。その後大永五年(一五二五)に成澤越前守隼人正義佑が、この地に武蔵成澤城を築城したが、この城は、関東管領上杉憲政の保護下で甲斐の武田信玄に対応するため、甲斐に通じる間道の要衝に築城したものであった。義佑戦死後は、上杉一門の武将が守備してきた関係で、深谷城主上杉三郎憲盛により現在の靜簡院が創建されたものである。開基である憲盛の墓が寺の裏に奥津城としてあり、浄閑寺跡の石垣も現存している。
また、本堂脇には水子地蔵尊が安置され、浄閑寺の末寺であった神力寺の本尊阿弥陀如来堂も西側に建立され、近在近郷の善男善女の参拝客で賑わっている。(埼玉県掲示より)
※神力寺は、成沢にあった寺院ですが、新編武蔵風土記稿では「浄土宗、上野國邑楽郡館林善導寺末、稲荷山光福院と號す、彌陀を本尊とせり」と記しています。
新編武蔵風土記稿による静簡院の縁起
(成澤村)
静簡院
禅宗曹洞派、男衾郡野原村文殊寺末、龍谷山成澤寺と號す、深谷の城主上杉兵衛憲盛の開基なり、憲盛天正三年三月二十八日卒す、法謚を伴松軒要山静簡大居士と云、開山は靈因祖源、天正十四年五月十一日示寂、本尊釋迦を安ず
稲荷社(新編武蔵風土記稿より)
静簡院の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿