火防稲荷神社。西明寺住職秀勝法印が勧請
火防稲荷神社の概要
火防稲荷神社は、熊谷市津田にある稲荷神社です。火防稲荷神社は、西明寺住職秀勝法印が、火災等の災厄除けに京都伏見稲荷を勧請して寺地薬師堂隣に勧請、牛頭天王・天満宮と並んでいたといいます。明治維新後の神仏分離令により当地へ遷座、その後神社合併令により牛頭天王・天満宮は津田八幡神社へ合祀されたものの、地元の要望により残され、昭和30年には稲荷講が組織され、境内整備が進められたといいます。
社号 | 火防稲荷神社 |
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祭神 | 稲荷明神 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | - |
住所 | 熊谷市津田 |
備考 | - |
火防稲荷神社の由緒
火防稲荷神社は、西明寺住職秀勝法印が、火災等の災厄除けに京都伏見稲荷を勧請して寺地薬師堂隣に勧請、牛頭天王・天満宮と並んでいたといいます。明治維新後の神仏分離令により当地へ遷座、その後神社合併令により牛頭天王・天満宮は津田八幡神社へ合祀されたものの、地元の要望により残され、昭和30年には稲荷講が組織され、境内整備が進められたといいます。
境内石碑による火防稲荷神社の由緒
火防稲荷縁起
そもそも当火防稲荷は文政時代時の西明寺住職秀勝法印火災等の災厄を除去せんと京都伏見より稲荷明神を勧請薬師堂南へ牛頭天王、天満宮と並べて社殿を建立、其後来毎年初午の祭礼を執行耕地町の畑地一反二畝歩を取り添へその果実を祭典費の一部に充て後代に到る。然るに明治初年神佛分離令に依り三社共に現地へ移轉更に神社合併令に依り八幡社へ三社共に合社せんとせしも当社のみは里人神威を怖れて社殿の取毀し出来ず現地に残り現在に到りその間霊験顕著なる事地許氏子のみならず四隣に普く人口に膾炙す。終戦后畑は国の解放令に依り、解放せるも昭和三十年に五年一期として二基十年の稲荷講を勧募組織、その間社殿の改築境内外の整備毎年西明寺境内を会場として初午の祭礼を挙行以って今日に到っている。以上沿革を序して后世に傳へんとす。
平成九年初午(境内石碑より)
「埼玉の神社」による火防稲荷神社の由緒
新編武蔵風土記稿には、熊谷寺の項に稲荷社として当社に触れています。
八幡神社<大里村津田八九七(津田字前町)>内
当地には、「火除け稲荷」と呼ばれる社がある。この社は、かつて当社に合祀され、八坂神社と共に字西町の西明寺境内に祀られていたが、神仏分離の際に寺域外に移されたものである。その由来は、西明寺が度重なる火災に見舞われたため、京都の伏見稲荷から寺の鎮守として勧請したことに始まると伝える。火除けの信仰から、熊谷・吹上・東松山など各地に講が結成され、縁日には多くの参詣者でにぎわったという。しかし、昭和三十七年に「火除け稲荷」が鎮座している地元で大火が起こったことから、徐々に信仰は薄れ、やがて講も消滅してしまった。ただし、今日でも初午には三々五々参詣が行われている。(「埼玉の神社」より)
火防稲荷神社の周辺図