真光寺。埼玉県指定有形文化財の安貞二年銘板石塔婆
真光寺の概要
真言宗智山派寺院の真光寺は、春原山觀音院と号します。真光寺の創建については不詳ながら、宥定(寛永10年1633年寂)が慶長年間(1596-1615)に開山したといいます。宥定は浄安寺をも開山しています。
山号 | 春原山 |
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院号 | 觀音院 |
寺号 | 真光寺 |
本尊 | 正観音菩薩像 |
住所 | 熊谷市樋春297 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
真光寺の縁起
真光寺の創建については不詳ながら、宥定(寛永10年1633年寂)が慶長年間(1596-1615)に開山したといいます。宥定は浄安寺をも開山しています。
新編武蔵風土記稿による真光寺の縁起
(春野原村)
眞光寺
新義眞言宗、京都智積院末、春原山觀音院と號す、本尊正觀音行基の作、五尺許の立像なり、開山宥定寛永十年寂せり、
聖天社
薬師堂。本尊を安ぜず、相傳ふ此像堂中に安置するに、おのづから地中に沒す、これを穿出せば又いつとなく歿入すよりて想ふに佛心堂を忍ならんとて、更に穿出さす、今は七尺許も地中に埋みたらんと云、人呼て穴の薬師と號す、(新編武蔵風土記稿より)
真光寺所蔵の文化財
- 安貞二年銘板石塔婆(埼玉県指定有形文化財)
安貞二年銘板石塔婆
現在、真光寺にて安置されている安貞二年(一二二八)銘板石塔婆は、現在の熊谷市樋春地内に所在した「観音寺」の墓地に建てられていました。観音寺は、明治期の廃仏毀釈によって廃寺となり、本寺に移されました。本板石塔婆は、現在確認されている中では、須賀広大沼の『嘉禄三年(一二二七)銘阿弥陀三尊像板石塔婆』に次いで二番目に古く、種子使用・完成品としては日本最古の資料になります。
材質は緑泥石片岩製で、高さ一二六センチ、上部幅三四センチ・下部幅三九センチ・厚さ六・五センチを測ります。
これは当時の尺度で、四二寸・十一寸・十三寸・二寸に相当します。
頂武の一部と両側にわずかに剥落が認められますが、基部に至るまでほぼ完存しています。頂部はゆるい山形で、古式な形態を示しており、二条線部分は帯幅が広く、羽刻みは平たく、上方へ剥取るように両側面にまで刻まれています。基部にはホゾをつけており、本来は台石に据えられていたようです。碑面は主尊、十七文字の銘文及び紀年銘から構成されています。
主尊に表された銘文には、「右造立旨趣旨 為幽儀成仏 得道所奉訪也」(右の塔婆造立の目的は、亡くなられた人が仏となる道を、得られるよう弔うもの)と示されています。
板碑の銘文には、供養する人及び造立者の名前は刻まれていませんが、阿弥陀如来を礼拝の対象とし、死者の冥福を願ったものと思われます。文字は草書調に刻まれ、その配置は定型化しておらず、のびやかな印象を受けます。当地域の板石塔婆の文化を知る上で貴重な歴史遺産です。(熊谷市教育委員会掲示より)
真光寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿