妙音寺。奈良三郎が開山、忍領三十四所
妙音寺の概要
真言宗智山派寺院の妙音寺は、開敷山観音院と号します。妙音寺は、頼尊(奈良三郎)が開山、西ノ坊と称していたといい、慶安2年には寺領15石の御朱印状を拝領したといいます。幡羅郡八十八ヶ所霊場28番です。
山号 | 開敷山 |
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院号 | 観音院 |
寺号 | 妙音寺 |
住所 | 熊谷市上奈良702 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
妙音寺の縁起
妙音寺は、奈良三郎(成田大夫助高の三男)が開山したと伝えられ、西ノ坊と称していたといいます、慶安2年には寺領15石の御朱印状を拝領していました。
新編武蔵風土記稿による妙音寺の縁起
(上奈良村)妙音寺
新義真言宗、横見村御所村息障院末、開敷山観音院と號す、寺領十五石は慶安二年八月廿四日御朱印を賜ふ、開山頼尊は奈良三郎なりと云、本尊大日、脇立に如意輪観音・不動を置り観音は古の本尊にて、行基の作と云、東光寺の傳には、當寺慶安以前は西ノ坊と呼びし由をいへど、當寺にては傳へず。
天神社。稲荷社。観音堂。
頼尊墓。自然石にて、表に開山観音院頼尊、左の方に奈良三郎・藤原頼尊右の方建久六乙卯年現住鏡岸、裏に助成主篠澤氏と彫れり、往古の碑は欠崩れしにより、この碑は村民外記と云もの、享保の頃の再建なりといへば、其頃傳へのままを彫りて、古碑の文を寫せしにはあらざるべし、又相傳ふ、此地は奈良三郎が居住にして、當寺の開山なりと云、按に成田系譜に、成田大夫助高の三男奈良三郎高長あり、此人の墳墓にして、此人當所に住し、在名を以て稱せしこと知るべし、高長後入道して頼尊と號し、此所に住し、當寺を開山せしにや、又同じ家の分限帳に四十五貫文奈良下野とあり、是も後年當所に住せし者なるべし、此外【東鑑】承久の亂鎌倉方に、奈良兵衛尉・奈良五郎・奈良左近将監等の名見え、ことに兵衛尉は成田別府等と並べ記したれば、恐くは當所の人なるべし。(新編武蔵風土記稿より)
妙音寺の周辺図