龍淵寺。熊谷市上之にある曹洞宗寺院

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龍淵寺。成田左京亮家時が開基、成田家の菩提寺、中本寺格寺院

龍淵寺の概要

曹洞宗寺院の龍淵寺は、太平山と号します。龍淵寺は、成田家中興の祖成田左京亮家時(法名淵休院功山宗勇、応永27年1420年寂)が開基、皿尾村の阿弥陀堂に寓居していた和庵清順(寛正5年1465年寂)を招聘して開山として、応永18年(1411)創建、成田家の菩提寺となっていたといいます。徳川家康が江戸入府の時、当時の住僧呑雪が、三河出身で、徳川家康と幼少より昵懇だったことから、曹洞宗の総録を打診されたものの謝絶、寺領100石の御朱印状を拝領したといいます。忍領三十四所8番でした。

龍淵寺
龍淵寺の概要
山号 太平山
院号 -
寺号 龍淵寺
本尊 釈迦牟尼仏
住所 熊谷市上之336
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



龍淵寺の縁起

龍淵寺は、成田家中興の祖成田左京亮家時(法名淵休院功山宗勇、応永27年1420年寂)が開基、皿尾村の阿弥陀堂に寓居していた和庵清順(寛正5年1465年寂)を招聘して開山として、応永18年(1411)創建、成田家の菩提寺となり、成田下総守顯泰(法名清岳成安)、成田肥前守泰季らにより再興されたといいます。天正19年には徳川家康により寺領100石の御朱印状を拝領していました。

新編武蔵風土記稿による龍淵寺の縁起

龍淵寺
太平山天釣院と号す。禅宗曹洞派、越前国南條郡宅良谷慈眼寺末、始は近江国高島新豊寺の末に隷せしと云。当寺は成田氏代々の葬地にして、開基は成田左京亮家時なり。応永18年郡中皿尾村の阿弥陀堂に、寓居せし和庵清順と云僧を請て草創し、則清順を開山として龍淵寺と号す。家時は応永27年3月7日卒す。法謚淵休院功山宗勇と称す。清順は寛正5年11月15日寂せり。其後永享12年家時の孫、下総守顯泰再興す。この人は法名清岳成安と号す、文明16年4月8日卒せり。後永禄5年失火して本堂以下烏有となりしかば、明る6年顯泰の孫肥前守泰季諸堂建立ありと云。御入国の後天正19年東照宮此邊遊猟の時、当寺へ渡らせたまひ、時の住僧呑雪は西郷氏にて、三河に在せられし時、御乎習の御相手なりし故、古き御馴染をおぼし召出され、御懇の仰ごとあり。且当寺の山号を問せ給ひ、御入国の始太平山に入せ給ふこと御吉瑞なりとて、曹洞一派の総録を許さるべしとのことなりしが、総録の職となりては、佛道の憒ともなればとて辞し奉りし故、重て命ありて寺領100石の御朱印を附させられしとなり。御朱印の文は左に録す。
寄進 龍淵寺
武蔵国太田庄成田内百石之事
右如先規令寄附訖、殊寺中可為不入、弥守此旨佛法相続不可有怠慢之者也。仍如件。
天正十九年辛卯十一月日 大納言源朝臣御書判
其後も此邊御放鷹の節は、しばしば当寺へ成せられしとなり。本尊釈迦を安ず。
(寶物については中略)
本堂。禅堂。衆寮。回廊。山門、未だ再建に及ばず、礎石のみあり。表門。下馬札。制札、天正18年禁制の写を記す。鐘楼、寛政8年、再鋳の鐘をかく。
東照宮。御宮の側に御神水と唱ふる小池あり。こは当時忍城へ御滞留の頃、御茶の水に用ひられしものと云傳ふ。
稲荷社。天神社。弁天社。
龍ヶ淵。本堂の後にある小池なり。古へ此邊沼地にして龍潜みしを、開山和尚清順法力を以て其患を退け、此池へ当寺を建立せしが、龍淵を以て寺号とせり。是其名残なりと云。
開山坐禅石。丸き石を以て築立り。是和庵和尚当時坐禅せし処なりと云。(新編武蔵風土記稿より)


龍淵寺所蔵の文化財

  • 奥原晴湖墓(埼玉県指定文化財)
  • 銅鈴(熊谷市指定文化財)
  • 成田氏系図(熊谷市指定文化財)
  • 成田氏分限簿(熊谷市指定文化財)
  • 成田記(熊谷市指定文化財)
  • 龍淵寺梵鐘(熊谷市指定文化財)
  • 成田氏の墓(熊谷市指定文化財)

龍淵寺の周辺図