万吉観音堂。村岡河原の戦いで敗れた武士を弔うため建立
万吉観音堂の概要
万吉観音堂は、熊谷市万吉にある堂庵です。万吉観音堂は、永享12年(1440)の村岡河原の戦いで敗れた一色伊予守などの武蔵武士を弔うため、天台宗本山より如意輪観世音を勧進し、如意輪寺と号して創建したと伝えられます。江戸期には浄土宗専念寺持ちの観音堂として記載され、観音堂奥の万吉第一集会所地にあった専念寺が、観音堂を支配していたようです。専念寺は万吉第一集会所建設に際して廃寺とされましたが、諸仏像や歴代住職位牌が集会所に残されているそうです。
山号 | - |
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院号 | - |
寺号 | - |
本尊 | 如意輪観音像 |
住所 | 熊谷市万吉 |
宗派 | - |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
万吉観音堂の縁起
万吉観音堂は、永享12年(1440)の村岡河原の戦いで敗れた一色伊予守などの武蔵武士を弔うため、天台宗本山より如意輪観世音を勧進し、如意輪寺と号して創建したと伝えられます。江戸期には浄土宗専念寺持ちの観音堂として記載され、観音堂奥の万吉第一集会所地にあった専念寺が、観音堂を支配していたようです。専念寺は万吉第一集会所建設に際して廃寺とされましたが、諸仏像や歴代住職位牌が集会所に残されているそうです。
境内掲示による万吉観音堂の縁起
如意輪観音堂
境内にある御堂再建の石碑によれば、鎌倉時代・永享十二年(一四四〇)七月、鎌倉公方足利氏と関東管領の上杉氏が争った「村岡河原の戦い」で敗れた一色伊予守をはじめとする武蔵武士の勇士を弔うために、天台宗本山より勧進した『如意輪観世音』を本尊とした如意輪寺を建立したと伝えられている。
この御堂の再建は、村民からの弐千有余円の浄財弐千百余人の賦役によって再建されたものである。かつて、縁日には多くの参拝があり、団子も投げられ、盛大な祭典が行われたが、いつの頃からか途絶えてしまった。
御本尊である如意輪観世音は、江戸時代に不明になったと伝えられており、現在は同じく江戸時代の作と考えられる『聖観音菩薩立像』が安置されている。
境内には江戸時代・寛政十一年(一七九九)に建立された馬頭観音や坂東・西国・秩父百番巡礼供養塔、二十二夜塔の石碑などがあり、観音様として篤い信仰を受けていたことがうかがえる。(万吉地区文化遺産保存事業推進委員会掲示より)
新編武蔵風土記稿による万吉観音堂の縁起
(中曾根村)
専念寺
浄土宗、足立郡鴻巣勝願寺末、彌陀を本尊とす、
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観音堂
専念寺持 (新編武蔵風土記稿より)
境内掲示による専念寺の縁起
専念寺跡
江戸幕府により編纂された新編武蔵風土記稿には、専念寺は「浄土宗、足立郡鴻巣勝願寺末、彌陀を本尊とす。」とある。現在、集会所として使用している建物の一室に保管されている開山上人の位牌には、延宝七年(一六七九)と記されており、江戸期の開山と思料される。御本尊は、平成二十九年四月に行われた市史仏像調査によれば、木造阿弥陀如来坐像は江戸時代中期のものと判明した。
専念寺は長い間無住職であり、行田市内にある同じ宗派寺院の住職が兼務していた。現在は廃寺となってしまったが、地元の長老によれば、昭和五十年頃に本堂の老朽化が進み、その敷地に集会所を建設するという話が持ち上がり、建設許可を申請する段階になり、登記が寺院のままでは許可が下りないということから、やむなく廃寺の手続きを行ったという経緯である。
今日では、集会所の片隅に、御本尊ほか、十王坐像や木造鬼形立像などの数々の仏像や歴代住職の位牌がひっそりと安置されている。(万吉地区文化遺産保存事業推進委員会掲示より)
万吉観音堂の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿