半田稲荷神社。金町の半田稲荷神社を勧請
半田稲荷神社の概要
半田稲荷神社は、三郷市半田にある神社です。半田稲荷神社は、室町時代の初期に、古河公方が、自らが勧請した金町の半田稲荷神社の分霊を、家臣に命じて当地に勧請したといいます。江戸期には半田村の鎮守として祀られ、延宝2年(1674)天神・厳島神社を勧請、明治維新後の社格制定に際して明治6年村社に列格していました。
社号 | 稲荷神社 |
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祭神 | 倉稲魂命 |
相殿 | - |
境内社 | 厳島神社、天神社 |
祭日 | - |
住所 | 三郷市半田430 |
備考 | - |
半田稲荷神社の由緒
半田稲荷神社は、室町時代の初期に、古河公方が、自らが勧請した金町の半田稲荷神社の分霊を、家臣に命じて当地に勧請したといいます。江戸期には半田村の鎮守として祀られ、延宝2年(1674)天神・厳島神社を勧請、明治維新後の社格制定に際して明治6年村社に列格していました。
新編武蔵風土記稿による半田稲荷神社の由緒
(半田村)
稲荷社
村の鎮守なり、萬勝寺持
末社。辨天、天神
庵、不動を安ず、社守の僧居れり。(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による半田稲荷神社の由緒
稲荷神社<三郷市半田四三〇(半田字五反田)>
市の北部に位置する半田は、かつて二郷半領と呼ばれていた農業地あせ帯の一角を占めている。二郷半領は、葛飾早稲の通称で知られる早場米の産地として有名で、一説によると、当社は、古河公方が室町時代の初期に、この穀倉地帯を掌握するために、自らが勧請した金町(現東京都葛飾区)の半田稲荷神社の分霊を、重臣の中村三郎胤隆に命じてこの地に祀らせたことに始まるという。
近世においては、延宝二年(一六七四)三月に天神・弁天(現厳島神社)の二社を末社として勧請しているほか、享保三年(一七一八)十月十一月に宗源宣旨を受け正一位稲荷大明神に叙されている。また棟札によれば、寛政十二年(一八〇〇)に社殿を再建している。
『風土記稿』半田村の項に、当社は「稲荷社、村の鎮守なり、万勝寺持、末社弁天、天神、庵、不動を安ず、社守の僧居れり」と載っている。この文中に見える庵は、神仏分離によって廃された後、社務所として建て直され、更に昭和四十三年には、半田地区の集会所とされ住民の利用に供している。なお、明治の初めまで当社を管理していた万勝寺は、明治四十二年六月に地内の観音寺を合併し、寺号を万音寺と改め現在に至っている。
一方、神仏分離の後、当社は万勝寺の管理を離れ、明治六年には半田村の村社となった。(「埼玉の神社」より)
半田稲荷神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」