樋野口稲荷神社。江戸川改修で村が東西に分断され、新たに勧請
樋野口稲荷神社の概要
樋野口稲荷神社は、三郷市東町にある神社です。樋野口稲荷神社の創建年代は不詳ですが、当地周辺の樋野口村は享保16年(1731)の江戸川河川改修により村が東西に分断してしまったため、樋野口村西部の鎮守として勧請したと推定されています。境内には、新田組廿壱ヶ所19番大師堂があります。
社号 | 稲荷神社 |
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祭神 | 倉稲魂命 |
相殿 | - |
境内社 | 冨士嶽社 |
祭日 | - |
住所 | 三郷市東町45-1 |
備考 | - |
樋野口稲荷神社の由緒
樋野口稲荷神社の創建年代は不詳ですが、当地周辺の樋野口村は享保16年(1731)の江戸川河川改修により村が東西に分断してしまったため、樋野口村西部の鎮守として勧請したと推定されています。
新編武蔵風土記稿による樋野口稲荷神社の由緒
(樋野口村)稲荷社
村の鎮守とす、大乗院持(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による樋野口稲荷神社の由緒
稲荷神社
当社の境内は、江戸川の堤防のすぐ近ぐ、畑の点在する住宅地の中にある。当社とその鎮座地である樋野口は、江戸川の河川改修によって、その姿を変むてきた。元来、江戸川は当地において、大きく「つ」の字状に蛇行しており、水害が多く、舟運にも不便であったため、享保十六年(一七三一)に村の中央部を開削し、川を直線化する大工事が行われた。この工事により、川は直線状になったものの、樋野口の村は東西に二分されてしまった。対岸の千葉県松戸市にも、当地と同じ樋野口という地名があるのはこのためである。
現在、千葉県側の樋野口では鎮守として女体神社が祀られている。当社創建の年代及び開削によって村が分断された年代などを合わせて考えると、樋野口村では、古来、女体神社を鎮守として祀っできたが、村が分断され東岸の女体神社に参詣できなくなった村の西側に住んでいた人々が、新たに鎮守として当社を勧請したものと推測される。
本殿には、稲荷大明神像(像高一六・五)と神璽が納められている。神璽筥の墨書銘に「正一位稲荷大明神、宝暦十年□□正月吉日樋口新田」「武州大乗院、稲荷社、羽倉摂津守」とあることから、分村から三〇年ほど経た宝暦十年(一七六〇)には村が徐々に発展し、当社も京都伏見の稲荷神社の分霊社に認められたのであろう。
大正五年には、再度の江戸川改修により故地を現在地に移した。(「埼玉の神社」より)
樋野口稲荷神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」