芳川神社。吉川市平沼の神社

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芳川神社。吉川氏が諏訪神社として再興

芳川神社の概要

芳川神社は、吉川市平沼にある神社です。芳川神社の創建年代等は不詳ながら、武士団吉川氏が古い土地の神を氏神諏訪神社として文治3年(1187)に再興、応永年間(1394-1428)に当地に移住した戸張城主の一族である戸張氏が延命寺を中興し、延命寺の門徒寺である智光院が当社の別当を兼ねていたといいます。江戸期には香取社を相殿として、平沼村の鎮守として祀られていました。明治維新後の社格制定に際し明治6年村社に列格、明治41年から大正2年にかけて地内の34社を合祀、社号を芳川神社と改めています。

芳川神社
芳川神社の概要
社号 芳川神社
祭神 建御名方命
相殿 経津主命・愛染大神
境内社 吉川天満宮、古峰神社、鹿頭大明神、八大龍王・水神宮、松尾神社、八坂神社、稲荷神社
祭日 春祭り正月7日、天王様7月15日(祭典のみ、神輿出しは近い日曜日)
住所 吉川市平沼315-6
備考 -



芳川神社の由緒

芳川神社の創建年代等は不詳ながら、武士団吉川氏が古い土地の神を氏神諏訪神社として文治3年(1187)に再興、応永年間(1394-1428)に当地に移住した戸張城主の一族である戸張氏が延命寺を中興し、延命寺の門徒寺である智光院が当社の別当を兼ねていたといいます。江戸期には香取社を相殿として、平沼村の鎮守として祀られていました。明治維新後の社格制定に際し明治6年村社に列格、明治41年から大正2年にかけて地内の34社を合祀、社号を芳川神社と改めています。

新編武蔵風土記稿による芳川神社の由緒

(平沼村)
諏訪社
香取を相殿とし、本地佛愛染の像を安ず、村の鎮守にて智光院持、
末社山王、稲荷
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天王社
市場の守護神なり、村民持(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による芳川神社の由緒

芳川神社<吉川町平沼三一五-六(平沼字町東側)>
当社は市街地に鎮座し、裏手を旧下妻街道が走っている。古くは社殿の裏は深い竹やぶで、中に大人三人抱えの杉の大木があり、遠くから望むことができたため、神社のよい目印となっていた。現在この杉は枯れたが境内の大きな楠の木が古社であることを物語っている。
古くは当地一帯が沼地で、地名の平沼もこの地形によるという。
開発は古く、『武州文書』に延文六年(一三六一) に書かれたという市場祭文が載せられているが、これに吉河の名があり早くから物資の集散地として栄え、後世吉川宿、また、船着き場として有名になっている。江戸中期に最も繁栄し、富新田から船着き場に向かった船が難破した話や、船積み人足で料理屋が繁昌した話などが伝えられている。昭和の初期まで下妻街道に沿って市が立っていたが、これは江戸期まで農家の人たちが年貢の余りを市で売った名残であるという。
平沼は上町・中町・下町に分かれており、上町には上寺と呼ばれた智光院があり、当社に接して建っていたが弘化三年(一八四六)に焼失している。中町には中寺と称する智勝院がある。下町には下寺と呼ぶ真城院があったが明治初期に廃されている。
当地は交通の要衝であったので、文人が輩出した所である。二郷半領の定雅もその一人で、小林一茶が彼を訪ねたが、あいにく留守であったため「稲の香やかさい平のばか一里」の句を残している。
社記によると、当社は文治三年(一一八七)に当地に興った武士団吉川氏が古い土地の神を氏神諏訪神社として再興したことに始まる。『吾妻鏡』建長二年(一二五〇)閑院内裏造営の雑掌分担目録に河堰二百三十文のうち東詣十文、吉川三郎とあるのがこの吉川氏である。
下って応永年間(一三九四-一四二八)、戸張城主の一族である戸張氏が戦に敗れて、下船国戸張村から当地平沼に移住する。同家古文書「元亀二年簗田持助判物」に御百姓役とあり、「天正十八年簗田助縄書状写」には”盗賊討殺” とあることから、戸張家は築田家に仕えながら土地の百姓を束ねた武士であったと思われ、当社を後年同家で管理していることなどからも戸張家の産土神として諏訪神社を祀るようになったと考えられる。
以来、永仁年間(一二九三-九九)開山と伝える京都智積院直末である延命寺の門徒智光院が当社の別当を務めて社頭も整い、享保二十年(一七三五)には正一位諏訪大明神の宗源宣旨を受けている。
弘化三年に平沼大火が起こり、当社及び智光院も類焼し、当社は嘉永三年(一八五〇)に再建されたが、智光院は折からの明治の神仏分離に遭い廃絶し、祀職を戸張家が務めることとなった。
戸張家は平将門の後裔と伝え、将門の姫が南天の木の下で殺害され同家では祝犠に南天を用いないという。
(中略)
明治六年に村社となり、同四十一年から大正二年にかけて村内の四社が合祀されたことを機に社名諏訪神社を芳川神社と改めた。
合祀社は道庭の香取神社、木売の熊野神社、木売新田の稲荷神社、富新田の稲荷神社、高富の稲荷神社、平沼の八坂神社・鷲神社、保村の稲荷神社・蕎高神社、須賀の香取神社などである。
現社殿は、本殿が明治四十二年の建立、拝殿が平沼大火後の嘉永三年の再建で、拝殿軒下の方位を示す十二支の彫刻が優れている。
主祭神は建御名方命、配祀神は経津主命・愛染大神である。愛染大神とは神仏習合時代の本地仏愛染明王を改称したものである。
境内社には八坂神社・芳川天満宮・稲荷神社・松尾神社・水神宮八大龍王・鹿頭大明神・古峰神社がある。八坂神社は天王様と呼ばれ天正三年(一五七五)に市場の守護神として祀られたと伝え、合祀社であり、神輿には貞享四年銘の厨子が納められている。芳川天満宮は昭和五十四年に京都の北野天満宮から分霊したものである。稲荷神社は吉川の各所から合祀された稲荷神社を祀っている。松尾神社は大山咋命・狭依毘賣命を祀るというが創建などは不明である。水神宮八大龍王は天明三年、鹿頭大明神は天保十三年の創建と伝えている。古峰神社は石碑で、書家小野駕堂が筆を執っている。(「埼玉の神社」より)


芳川神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「埼玉の神社」