延命寺。門末22ヶ寺を擁していた寺、寺武蔵国三十三ヶ所霊場
延命寺の概要
真言宗智山派寺院の延命寺は、寶光山地蔵院と号します。延命寺は、延命寺は、永仁3年(1295)清仙が開山したといいます。古河公方足利義氏逝去後に土着した西卜(戸張氏)が天正年間(1573-1593)に堂宇を再建して中興開基したといいます。慶安元年(1648)には江戸幕府より寺領10石の御朱印状を受領、近郷に末寺・門徒寺22ヶ寺を擁した中本寺格の寺院で、古利根川三ヶ寺と称されていました。西新井組中川通四箇領八十八箇所56番、武蔵国三十三ヶ所霊場初番です。
山号 | 寶光山 |
---|---|
院号 | 地蔵院 |
寺号 | 延命寺 |
本尊 | 子安延命地蔵尊像 |
住所 | 吉川市吉川1541 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
延命寺の縁起
延命寺は、永仁3年(1295)清仙が開山したといいます。古河公方足利義氏逝去後に土着した西卜(戸張氏)が天正年間(1573-1593)に堂宇を再建して中興開基したといいます。徳川家康の関東入国後には、関東郡代伊奈備前守忠次より一町歩の寺領を与えられ(円明院文書)、慶安元年(1648)には江戸幕府より寺領10石の御朱印状を受領、近郷に末寺・門徒寺22ヶ寺を擁した中本寺格の寺院で、古利根川三ヶ寺と称されていました。戸張氏は古河公方足利氏の家臣として関宿城主簗田氏に属し、応安年間(1368-1375)に柏市戸張から吉川市平沼に本拠拠を移し当地付近を領有、足利義氏逝去後は士分を捨てて土着、江戸期には平沼村の里正を勤めてきた旧家です。
境内掲示による延命寺の縁起
延命寺
この寺は、宝光山延命寺と称し、本尊は子安延命地蔵尊である。永仁三年(一二九五)に清仙が開基したと伝えられる古刹で、以前は古利根川三ヵ寺といわれていた。
慶安元年(一六四九)九月十七日、三代将軍の徳川家光より祈願所として、御朱印地十石を賜っている。
堂内には、本尊のほかに正観世音菩薩や薬師如来像等も安置されており、元禄十年(一六九七)から開かれている武蔵国新西国三十三霊場の札所一番になっている。
なお、当寺には、文安三年(一四四六)銘のある十三仏種子板石塔婆と文安四年銘のある六字名号板石塔婆があり、いずれも吉川町指定文化財となっている。(埼玉県・吉川町掲示より)
新編武蔵風土記稿による延命寺の縁起
(吉川村)
延命寺
新義眞言宗、京都智積院末、寶光山地蔵院と號す、村内及平沼村關村にて寺領十石を領す、其御朱印は慶安元年九月十七日賜はれり、門末二十二ヶ寺を支配す、鐘銘に據て按ずるに、永和三年丁巳僧清仙東海に飛錫し、此所に来しを里人留てために荒野を開き、草庵を作て居らしむと云、過去帳に載、應安五年祐義開基延命寺、文安三年開山中興祐範云々、永和三年は應安五年を下ること六年なれば、清仙かの祐義を推て開基とせしにや、天正年間に至て西卜と云もの堂宇を再建す、今卜を中興開基とす、其子孫は平沼村里正五郎左衛門是なり、本尊延命地蔵を安ず、坐像長一尺五寸、弘法大師の作なり、縁起によるに仁明天皇の后五條の皇后、文徳天皇を懐孕し給ひし時、皇子降誕平安の所願として、弘法大師に勅し畫像の二體を作らしめ給ひて、高野山に安置せしめらるゝ處なりしを清仙霊夢の告によりて不測に感得すと云、
寺寶。
延命地蔵畫像一軸。縁起に載する弘法大師筆にて、高野山寶物の幅なり。
波切不動畫像一軸。これも同筆なり、
淺間社
位牌堂。彌陀を安ぜり、
鐘樓。貞享元年甲子九月旗下の戸張五右衛門全盛寄附す、其後壊損して安永五年丙申十一月再鑄の由を鐫れり、全盛は旗下の士にて、其先祖隣村平沼村農家清兵衛が家より召出されしと云、事は平沼村條下に委し。(新編武蔵風土記稿より)
延命寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿