拾壱軒稲荷神社。吉川市拾壱軒の神社

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拾壱軒稲荷神社。拾壱軒の開発に際して奉斎

拾壱軒稲荷神社の概要

拾壱軒稲荷神社は、吉川市拾壱軒にある神社です。拾壱軒稲荷神社は、赤岩村の新田として寛永年間(1624-1644)から開発が進められ、元禄8年(1695)に村として成立した十一軒村の鎮守として祀られた二社の稲荷社のうちの一社で、当社は十一軒村上組の鎮守として奉斎されていたといいます。明治45年十一軒村下組の稲荷社を合祀しています。

拾壱軒稲荷神社
拾壱軒稲荷神社の概要
社号 稲荷神社
祭神 倉稲魂命
相殿 -
境内社 弁財天
祭日 初午
住所 吉川市拾壱軒408
備考 -



拾壱軒稲荷神社の由緒

拾壱軒稲荷神社は、赤岩村の新田として寛永年間(1624-1644)から開発が進められ、元禄8年(1695)に村として成立した十一軒村の鎮守として祀られた二社の稲荷社のうちの一社で、当社は十一軒村上組の鎮守として奉斎されていたといいます。明治45年十一軒村下組の稲荷社を合祀しています。

新編武蔵風土記稿による拾壱軒稲荷神社の由緒

(十一軒村)
稲荷社二
一は上組の鎮守なり、上赤岩村等覺院持、一は下組の鎮守なり、是も上赤岩村密蔵院持、(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による拾壱軒稲荷神社の由緒

稲荷神社<吉川町拾壱軒四〇八(拾壱軒字内谷)>
当社は庄内古川の左岸に広がる水田地帯の中に鎮まっている。昔は神社の近くを通った人が狐に化された話や杜にむじなが棲み着いた話を伝えるほど寂しい所であった。
村の開発は寛永年間(一六二四-四四)に行われ、初め赤岩村の新田であったが、元禄八年(一六九五)の検地の際に分村したと伝える。また、地名の拾壱軒は、開発当初の民家がわずか一一軒であったことによるという。現在、氏子の間で山崎・飯島・古屋・柏・松永などの姓を名乗る家々が、いずれも一一代から一二代目を数えるといわれ、その土着した時期が村の開発時期とほぼ一致する。
『風土記稿』十一軒村の項には「稲荷社二 一は上組の鎮守なり、上赤岩村内等覚院持、一は下組の鎮守なり、是も上赤岩村密厳院持」とあり、このうち上組の鎮守が当社である。上下の鎮守共に、親郷である上赤岩村の古刹無量寿院の末寺の管理下にあったことが知られ、当地の開発や神社の勧請の背景に親郷の有力寺院の存在が大きな位置を占めていたことが想像される。
明治四十五年、当社に下組稲荷社を合祀して現在に至っている。
なお、古くは当社の通称が”あかんどう”であったのに対して、下組の稲荷社が”くろんどう”と呼ばれていた。これは、その彩色の「赤い堂」「黒い堂」から転訛したものであろう。(「埼玉の神社」より)


拾壱軒稲荷神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「埼玉の神社」