定勝寺。平本定久・定勝父子開基、武蔵国三十三ヶ所霊場
定勝寺の概要
真言宗豊山派寺院の定勝寺は、蓮華山延命院と号します。定勝寺は、永正年中(1504-1520)市川市下貝塚附近に創建、蓮華山観音寺と号していたといいます。江戸時代に入り、河川改修工事等に伴い、寺地が水没することになり当地へ移転、当地の新田開発に尽力した平本定久(法名延命院蓮山道範)・その子平本定勝が堂宇を建立、その徳により寺号を定勝寺と改めたといいます。平本氏は、小田原北條の役で絶えた高城氏の子孫で、後には三輪野江村の名主を代々勤めていました。武蔵国三十三ヶ所霊場6番です。
山号 | 蓮華山 |
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院号 | 延命院 |
寺号 | 定勝寺 |
本尊 | 不動明王像 |
住所 | 吉川市三輪野江1553 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
定勝寺の縁起
定勝寺は、永正年中(1504-1520)市川市下貝塚附近に創建、蓮華山観音寺と号していたといいます。江戸時代に入り、河川改修工事等に伴い、寺地が水没することになり当地へ移転、当地の新田開発に尽力した平本定久(法名延命院蓮山道範)・その子平本定勝が堂宇を建立、その徳により寺号を定勝寺と改めたといいます。平本氏は、小田原北條の役で絶えた高城氏の子孫で、後には三輪野江村の名主を代々勤めていました。
境内掲示による定勝寺の縁起
蓮華山延命院定勝寺沿革
定勝寺の寺名は「新編武蔵風土記稿」によれば『新義真言宗、大和国初瀬小池坊<妙音院>に属し、蓮華山延命院と称す。中興開山は朝印、開基は当村を開きし平本主膳定久なり。法名延命院蓮山道範と号す。寺号山号法謚中の文字を撮取れり。』
本寺の創建は寛文九年(一六六九年)鋳造によれば永正年中(一五〇四~一五二〇)室町時代に下総葛飾郡貝塚村に一寺を草創し、蓮華山観音寺と号した。上杉北条両氏寄進もあり栄えたが、文禄年中(一五九二~一五九五)桃山時代に大火により堂宇全焼する。その後江戸期の開発のおり本寺は水路に没するにあたり平本定久、定勝父子によって堂宇を当所に移して旧観に復せる。住僧朝印歓喜し永くその徳を示さんがため、元の寺号をすて『定勝』が名をもって寺号とする。
昭和五十三年(一九七八年)本堂再建現在に至る。
本寺は江戸初期に当所に移りて、こんにちまでに歴史的価値のある建造物をはじめ、他に類を見ない数多くの石塔が存在する。(境内掲示より)
新編武蔵風土記稿による定勝寺の縁起
(三輪野江村)
定勝寺
新義眞言宗、大和國初瀬小池坊末、蓮華山延命院と號す、本尊不動、中興開山朝印寛永二十一年七月寂す、開基は當村を開きし平本主膳定久なり、寛永十三年九月十七日卒し、法名延命院蓮山道範と號す、寺號山號共法謚中の文字を撮取れり、寛永九年鑄造の鐘銘に據に、永正年中密宗の僧寮恰、下總國葛飾郡貝塚村に一寺を草創し、蓮花山觀音寺と號し、紀州根来小池坊の末に屬す、上杉北條の兩氏より寺領等寄附ありしが、文禄年中回禄の災にかゝり、堂宇殘らず焼失せり、其後伊奈忠治此邊の新田を開きし時、江戸川の水路を堀改めしに、當寺偶其水路に中り寺地殆ど沒せしかば、住僧朝印是を患ふ、時に平本定久深く其志をいたみ、寺地を當所へ移して堂宇を營み、頗る舊觀に復せり、後定久其子新右衛門定勝に跡を譲りて、下總國に移りしかば、定勝又父の志を繼坊宇を増加し、寺地を寄附せり、朝印感喜斜ならず、永く其功徳を示さんが爲、元の寺號をすて定勝が名をもて寺號とせしと云、
觀音堂。十一面觀音を安ず立像にて長一寸八分、稽文會椿子君が刻める所にして、大和國初瀬坊の觀音と同作なりと云、
鐘樓。銘文中寺傳にかゝはることは前に出せり、朝印二世長傳、定勝と議して鐘樓を構へんことを計り、礎石既に成て、長傳定勝相次で歿す、其弟行海定勝の子定智と志を繼で鐘樓を造り、鬼鐘を鑄てこれをかくと彫れり、又文中二郷半の義を述て云、當郡此邊もと吉川彦成のニ郷にて、諸村其中に屬せり、されど彦成以南の地は一郷と稱するに足らさるをもて、下半郷と云ひし故、夫を合せて二郷半と稱すと云、もとより領中彦名村は相州鶴岡八幡社領應永二十六年持氏の寄附状にも見え、鐘銘には永正年中の所創なりと載す、銘は寛文九年三月十八日林春斎が撰する所なり、
仁王門
辨天社
天神社
釋迦如来銅像。坐像にて長四尺、濡佛なり、
塔頭定智院。定勝の子新右衛門定智が開基する所なり、此餘昔は乗蓮院、圓光院、福壽院、浄楽院、東学院の五院あり、合て當寺六供の僧と號せしが、五院は廃して未再建に及ばず
平本定勝墓。墓所にあり、當寺本願前右金吾寶善院龜屋文昭居士とゑれり、碑陰の文あれど多くは漫滅して讀がたし、其中事實にあづかるものは舊家の條に出せり、此餘代々の墓数基立り、(新編武蔵風土記稿より)
定勝寺所蔵の文化財
- 定勝寺銅鐘一口(市指定有形文化財)
- 定勝寺仁王門(市指定有形文化財)
- 十一面観世音菩薩
- 阿弥陀如来立像 寛文七年(一六六七年)
- 阿弥陀三尊種子板碑型庚申塔 正保二天乙酉(一六四五年)
- 灯籠型地蔵庚申塔 寛文九年(一六六九年)
- 舟型光背 地蔵庚申塔 延宝五年(一六四五年)
- 六斎念仏地蔵塔 享保八癸卯歳(一七二三年)
定勝寺銅鐘一口
この銅鐘の銘文には当時寺の由来と二郷半領や三輪野江村の地名の由来が刻され、この地域の歴史を知る上で貴重なものである。
銘文によれば永正年中(一五〇四~一五二一年)下総国葛飾郡桐谷郷貝塚村に建立された、蓮華山観音寺が当寺の始まりと伝える。
慶長年中(一五九六~一六一五年)に徳川家康の命により、新田開発を行った代官伊奈忠治が、利根川支流の水路(現・江戸川)にあたるため現在の地に移転した。
この新田開発に尽力したのが平本定久で、その子平本定勝が堂宇を建立した。そこで住職はその名をとって寺名を定勝寺と改めその功に報いた。
二郷半領の由来は、銘文中に「吉川、彦成ノ二郷アリ諸色戸コレニ属ス。而シテ彦成以南ヲ下半郷ト称ス。故ニ二郷半之名有リ云々」とあり、彦成(現・三郷市)以南の地は一郷と称するには足らないので、下半郷といい、前二者と合せて二郷半と称したと伝える。
また、近郷近の村名や人名が百有余刻され、漢詩は、「本朝通鑑」や「国史実録」を編纂した林鷲峯(春斎)の作である。(埼玉県・吉川市教育委員会・定勝寺掲示より)
定勝寺仁王門
仁王門の建築年代は寛文(一六六一~一六七二)頃を上限とする建築であると思われる。県内でも最も古い様式をもつ三棟造仁王門である。昭和五十三年本堂改築のとき、屋根を銅板葺きに改修された。当時の建物の状況は明瞭ではないが際立って不調和な部分がないことから、当所の形式手法を踏まえて修理がなされた。
本寺の八脚門の仁王門を見ると、奈良時代の遺構として東大寺転害門と法隆寺の東大門を踏襲していること、軒の垂木をそのまま現した化粧屋根裏天井として、屋根を切妻形に組んで三棟造りになっている。八脚門の柱は中央でやや膨らみをもち、上下弧状にすぼまった粽円柱を立て、側面の妻飾りは後に補われたと思われる二重虹梁を大瓶束でうけている。軒の勾配も緩やかにとり二重虹梁をさげて、構築の美しさを最大限に発揮している。
さらに注目されるのは三棟造特有の、中心にはしる桁である。本来、桁はそのまま突き出して技巧をこらした妻飾りには不調和であるが、この門の桁は繰り形で、材を細めに出してうつりがよい。この手法の類例は他にはないという。
こんにちまで何回かの改修がおこなわれてきたが、その中には、江戸初期の建築ではあるが、中世の手法を受け継がれている貴重な仁王門である。(吉川市教育委員会・定勝寺掲示より)
定勝寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿