福田浅間神社。比企郡滑川町福田の神社

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福田浅間神社。比企郡滑川町福田の神社

福田浅間神社の概要

福田浅間神社は、比企郡滑川町福田にある神社です。福田浅間神社は、帯刀先生義賢(源義賢)の家臣の子孫が、天福年間(1233-1234)に源義賢の霊を祀り創祀、山頂からは宝徳2年(1450)奉納の鰐口と刀一振りが出土、鰐口に阿牙洲大明神」の刻銘があったことから、阿牙洲大明神(淡洲明神)と称されていたのかもしれません。また天福の「福」と田圃の「田」より地名を福田としたと伝承されています。

福田浅間神社
福田浅間神社の概要
社号 浅間神社
祭神 木花開耶姫命・帯万義賢公
相殿 -
境内社 津島神社、雷電神社、下浅間神社
祭日 夏季大祭7月15日、秋祭り10月17日、雷電社春季大祭4月3日
住所 比企郡滑川町福田2954
備考 -



福田浅間神社の由緒

福田浅間神社は、帯刀先生義賢(源義賢)の家臣の子孫が、天福年間(1233-1234)に源義賢の霊を祀り創祀、山頂からは宝徳2年(1450)奉納の鰐口と刀一振りが出土、鰐口に阿牙洲大明神」の刻銘があったことから、阿牙洲大明神(淡洲明神)と称されていたのかもしれません。また天福の「福」と田圃の「田」より地名を福田としたと伝承されています。境内社雷電神社は、滑川農協福田支所東側の雷電山から遷座しています。

境内掲示による福田浅間神社の由緒

遠望する前方後円墳に思われる浅間山は参道入口から社殿まで凝灰岩が露出して独特な雰囲気がある。
伝えでは、久寿二(一一五五)年帯刀先生義賢が菅谷大蔵館で、鎌倉悪源太義平に殺害され、その時義賢の家臣数人がこの辺りに落ちのびて土着、その子孫が天福年中に義賢の霊を祀った。天福の福、田圃の田で福田の地名となったというが、これについては定かではない。
戦時中、山頂辺りから宝徳二(一四五〇)年奉納の鰐口及び刀一振出土している。
山頂の池は、どんな干ばつでもかれることのない水が貯えられ古くはこの水が御神体で信仰されていたことも考えられる。近年までこの水を飲めば安産であるといわれた。。(滑川町観光協会・滑川町教育委員会掲示より)

新編武蔵風土記稿による福田浅間神社の由緒

(福田村)
淺間社
當社は帶刀先生義賢の靈を祀れりと云、久壽二年義賢討れし時、其家臣等此邊に落来りて土着せしもの八人あり、その子孫等天福年中此社を造建して、鎮守と崇めし由、馬場村舊家の條に載たり、猶其村に幷見るべし(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による福田浅間神社の由緒

浅間神社<滑川町福田二九五四(福田字富士根)>
当社は浅間山と呼ばれる凝灰岩の岩山の頂に鎮座している。その社叢は県から「ふるさとの森」に指定されており、春には桜の名所として地元の人々から親しまれている。
『風土記稿』並びに『福田村郷土誌』によれば、当地に土着した帯刀先生義賢(源義賢)の家臣の子孫たちが、天福年間(一二三三-三四)に義賢の霊を祀ったのが当社の創祀で、天福の「福」と田圃の「田」を採ってこの地を福田村と称したと伝える。
一方、口碑に「浅間様は落人が来て租った」「昔は黒岩山(現森林公園内)に祀られていたが、火災に遭い、火の玉となって現在の地に飛んで来た」とある。
祭神は木花開耶姫命・帯万義賢公の二柱である。
別当は『風土記稿』によると天台宗光栄寺であったが、日常の祭祀は本山派修験大光院が行っていた。現宮司の吉田家はその裔である。
明治初年の社格制定に際して、当社は無格社となり、地内の淡洲神社が村社に列した。昭和二十年ごろに社殿の東脇の土中から発見された宝徳二年(一四五〇)銘の鰐口に「阿牙洲大明神」の刻銘があり、当社同様に古い創建をうかがわせる。
なお、境内にある雷電社は、元は滑川農協福田支所の東にそびえる雷電山の山上に祀られていたが、いつのころか当社に移されたという。(「埼玉の神社」より)


福田浅間神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)