羽尾神社。比企郡滑川町羽尾の神社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

羽尾神社。祭神藤原恒儀公、恒儀様

羽尾神社の概要

羽尾神社は、比企郡滑川町羽尾にある神社です。羽尾神社は、当地一帯を領有していた藤原恒儀没後、神託により恒儀の嫡子の恒政が天長6年(829)社殿を造営、家臣設楽佐渡守行連に祭祀を命じ、設楽家の子孫が修験金剛院となり、当社の別当を勤めてきたといいます。羽尾村の産土神として祀られ、江戸期の享保年間(1716-1736)には神階を授かるために京都吉田家へ赴いたものの、相撲が強かった藤原恒儀は相撲のことで清原能鷹を撲殺した過去があることから神位を昇格させるのは難しく、「つねき」を「こふき」と改称するようにと言われたと伝わります。明治維新後の明治2年に祭神を「倭建命」に、社号を「羽尾神社」と改め明治4年村社に列格、大正年間に入り地内の諸社を合祀し、大正5年村社に指定されています。

羽尾神社
羽尾神社の概要
社号 羽尾神社
祭神 倭建命、藤原恒儀
相殿 -
境内社 -
祭日 例大祭10月吉日、春祭り4月吉日、秋祭り12月吉日
住所 比企郡滑川町羽尾4806
備考 -



羽尾神社の由緒

羽尾神社は、当地一帯を領有していた藤原恒儀没後、神託により恒儀の嫡子の恒政が天長6年(829)社殿を造営、家臣設楽佐渡守行連に祭祀を命じ、設楽家の子孫が修験金剛院となり、当社の別当を勤めてきたといいます。羽尾村の産土神として祀られ、江戸期の享保年間(1716-1736)には神階を授かるために京都吉田家へ赴いたものの、相撲が強かった藤原恒儀は相撲のことで清原能鷹を撲殺した過去があることから神位を昇格させるのは難しく、「つねき」を「こふき」と改称するようにと言われたと伝わります。明治維新後の明治2年に祭神を「倭建命」に、社号を「羽尾神社」と改め明治4年村社に列格、大正年間に入り地内の諸社を合祀し、大正5年村社に指定されています。明治維新後祭神を改めたものの、祭神に「藤原恒儀」を追加することは許されず、祭神に「藤原恒儀」が加えられたのは国家神道から開放された終戦後のことでした。

境内掲示による羽尾神社の由緒

当神社は、往古より「恒儀様」と尊称され、町崇敬の産土神社である。また、伝来の古書に「倭建命、天長六(西暦八二九)年鎮座」と明記されている。また、別の祭神「藤原恒儀」は青鳥判官と称し、隣地東松山市の青鳥にある青鳥城蹟の城主で、天長六年九月二十日に卒した人と伝えられる。
後年に至り、当社に合祀されたという。
そして、当社は、藤原恒儀の嫡子恒捉と家臣藤原行連によって創建されたと伝承されている。
明治四年村社となり、大正五年四月指定村社に昇格した。(境内掲示より)

新編武蔵風土記稿による羽尾神社の由緒

(羽尾村)
恒儀社
村内の産神なり、土人の話に當社は、青鳥判官藤原恒儀の靈を祀る所なり、恒儀は天長六年九月廿日卒せし人なり、今隣村石橋村の内、字内青鳥と唱ふる地に、恒儀の住せし城蹟といふものあり、享保年中當社の神官を附んとて、京都吉田家へ請しに、恒儀は力ある人にて、相撲のことにつき、清原熊鷹と云るものを撲殺せしにより、勅勘の身となりし由、王政玉と云書にも見えたれば、位階は進めがたし、是まで社號をつねきと唱へ来れど、この後はこふきと稱すべしといひしよし改號せりと、按に王政玉と云書名うたがはし、又恒儀のことも他の書に所見なければ、つまびらかならず、姑く傳るままを記せり、
別當金剛院
本山修驗、聖護院の末、愛宕山と號す、本尊不動を安ず、
愛宕社(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による羽尾神社の由緒

羽尾神社<滑川町羽尾四八〇六(羽尾字堀ノ内)>
「ごうぎさま」の通称が示しているように、当社は元来は恒儀大明神といい、祭神の藤原恒儀公は、大変相撲が強かったことから、武人の神として古くから尊崇され、とりわけ戦時中には武運を祈願する人が多かった。
そうした信仰の厚さによるものであろうか、『風土記稿』羽尾村の項にも「恒儀社 村内の産神なり、土人の話に当社は青鳥判官藤原恒儀の霊を祀る所なり、恒儀は天長六年(八二九)九月廿日卒せし人なり、今隣村石橋村の内、字内青鳥と唱ふる地に恒儀の住せし城蹟(現東松山市石橋にある青鳥城跡)といふものあり、享保年中(一七一六-三六)当社の神官を附んとて、京都吉田家へ請しに恒儀は力ある人にて、相撲のことにつき清原能鷹と云へるものを撲殺せしにより、勅勘の身となりし由『王政玉』と云書にも見えたれば、位階は進めがたし、是れまで社号をつねきと唱へ来れど、この後はこふきと称すべしといひしより改号せりと、按に『王政玉』と云ふ書うたがはし、又恒儀のことも他の書に所見なければつまひらかならす、姑く伝ふるままを記せり、別当金剛院 本山修験、聖護院の末、愛宕山と号す、本尊不動を安ず、愛宕社」と、その由緒がかなり詳しく記されている。
京都聖護院の直末であった旧金剛院の設楽家には多くの古文書が所蔵されているが、この中には、当社の縁起にかかわるものも幾つかある。その一つである「恒儀角力等之事」(年欠) によれば、藤原恒儀は、現在の石高にすれば十万石に相当する比企一郡の領主であり、背丈は七尺八寸五分、力は二四八人力で、その名の「儀」を音で読むのは『王清玉』によれば誤りであるという。更に、これに続く「恒儀上洛之事」では、次のように記されている。人皇五一代平城帝の御宇大同四年(八〇九)正月二十五日に、恒儀は奈良に上った。その前年八月十日には、日向国(現宮崎県)から熊撫軀という者が上洛していた。熊撫軀は、背丈が八尺一寸、力は三百人力もあり、西国に隠れなき強力の者として知られていた。そこで帝は、大同四年二月五日にこの両人を呼び、宮中で相撲の勝負をさせた。同年三月十日、恒儀は、愛宕の天狗に乗り、比企郡の岩殿に帰着し、そこから岩殿の僧に導かれて帰城して、同月十七日には京の愛宕(現京都府の愛宕神社か)を勧請した。天長五年七月二日、恒儀は没したが、翌年二月二日の午の刻に羽尾村の「土民の稗女」に「今より後、郡郷を守護したいと思う。明神として私を祀ってほしい」と託し、これを知った恒儀の嫡子の恒政は即刻社殿を造営し、家臣の設楽佐渡守行連に祀らせた。この設楽佐渡守行連は恒儀の一の家臣であったといわれ、その子孫が修験金剛院となった。
「設楽家系図」によれば、初代金剛院の南宗は平治元年(一一五九)に死去し、二十二代の秀時の代に神仏分離により復飾し、その後も賢木・文胤・秀夫と神職を継ぎ、奉仕を続けている。この系図のはじめの部分には、当社の由緒が記されており、その内容は先の「恒儀上洛之事」とほぼ同じであるが、恒儀との相撲の結果、熊撫軀は骨が砕けて死んでしまったことから、恒儀は熊撫軀側の恨みを買い、愛宕の神の導きで比企の地に逃れて来たとされている。一方、享保六年(一七二一)の「恒儀大明神旧記」では、恒儀は「経義」と記されており、相撲を取ったのは元明天皇の和銅年中(七〇八-一五)のことで、その相手は「朝鮮国」から来た「祐撫軀」という者となっている点など、内容が若干異なる。
また、当社は神仏分離の後、明治二年に社名を羽尾神社、祭神を倭建命と改めたが、氏子らの間には不満が残っていたらしく、明治四十年には、氏子総代神田亀次郎・矢嶋楳吉・持田藤次郎・赤沼惣平の四名と社掌設楽賢木の連名により、祭神に藤原恒儀を加えることを請願した「祭神増加願」が県知事大久保利武に宛てて出された。その文面からは、古来祭神として親しまれてきた藤原恒儀が祭神になっていないことに対する氏子や社掌のやるせない気持ちが切々と感じ取れる。その後も行政側と幾度か文書のやりとりがあったものの、結局この願い出は聞き入れられず、藤原恒儀の名が祭神として再び記されるようになるのは、昭和二十一年以降のことである。藤原恒儀を祭神に加えることが許可されなかった理由として、『滑川村史』は『風土記稿』にあるように恒儀が「勅勘の身」であったことと考えるのが自然としているが、実のところは定かではない。(「埼玉の神社」より)


羽尾神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)