水房阿和須神社。鎌倉時代の永仁年間創建
水房阿和須神社の概要
水房阿和須神社は、比企郡滑川町水房にある神社です。水房阿和須神社は、三枝の別連の末裔が当地を開発、永仁年中(1293-1299)字御山の台に創建したと伝えられます。寛永元年(1624)放光寺の祐海法師が当地へ遷座、水房村の鎮守として祀られてきました。明治維新後の社格制定に際し明治6年村社に列格、大正5年には村社に指定されています。
社号 | 阿和須神社 |
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祭神 | 大鞆和気命、息長足日売命、武内宿祢命 |
相殿 | - |
境内社 | 稲荷神社、八坂社・天神社・山神社合殿 |
祭日 | 春祭4月15日、例祭10月13日、秋祭12月18日 |
住所 | 比企郡滑川町水房373 |
備考 | - |
水房阿和須神社の由緒
水房阿和須神社は、三枝の別連の末裔が当地を開発、永仁年中(1293-1299)字御山の台に創建したと伝えられます。寛永元年(1624)放光寺の祐海法師が当地へ遷座、水房村の鎮守として祀られてきました。明治維新後の社格制定に際し明治6年村社に列格、大正5年には村社に指定されています。
境内掲示による水房阿和須神社の由緒
当社の本宮は大和国添上郡にある阿波の神社である。垂仁天皇の曾孫三枝の別連の末裔が此の郷を開き、後柏江郷の戸主直道継の末裔によって永仁年中(西暦一二九〇年代)字御山の台に三柱の神霊を祀ったと伝えられる。寛永元年に至り祐海法師により現地に遷座し、その後寛延二年十一月金雄法師および氏子一同にて社殿を再建した。明治六年村社となり大正五年指定村社に昇格した。(滑川町観光協会・滑川町教育委員会掲示より)
新編武蔵風土記稿による水房阿和須神社の由緒
(水房村)
淡洲明神社
村の鎮守なり、放光寺持、
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稲荷社
清善寺持(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による水房阿和須神社の由緒
阿和須神社<滑川町水房二三八(水房字表の前)>
水房は、生活用水や濯甑用水に利用されてきた溜池が数多く散在する自然環境に恵まれた地域である。地名は、山野に自生する落葉喬木のミズフサ(水木のこと)が群生することに由来するという。
当社について『風土記稿』では「淡洲明神社 村の鎮守なり放光寺持」、『郡村誌』では「粟巣社村社祭日三月十五日九月十九日」と記載している。また『明細帳』には「本社ハ大和国添上郡ニアル阿波乃神社ナリ(中略)柏江郷ノ戸主直ノ道継ノ末裔、永仁年中、字御山ノ台二三柱ノ神霊ヲ祭ルト云」とあり、永仁年間(一二九三-九九)に創建されたと伝えられている。祭神は『明細帳』でも三柱の神霊とあるように、大鞆和気命、気長足姫命、武内宿禰の三神である。
社名は古くから「淡洲神社」や「粟巣神社」と記載されているが、大正二年十二月九日に現在の「阿和須神社」の表記に定められ、大正五年二月九日に指定村社となった。この地方には「あわすじんじゃ」と呼称する社が七社分布しているが、その内の一社である。
また、当社の西側には、末社として稲荷神社の社殿と八坂社・天神社・山の神社を一緒に祀る社殿がある。いずれも明治時代末から大正時代にかけて水房の各所から合祀されたものである。
内陣には石製の阿和須大明神像(像高三九センチメートル)と享保元年(一七一六)に神祇管領から受けた「正一位阿和須大明神幣帛」を安置する。(「埼玉の神社」より)
水房阿和須神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)