月輪神社。比企郡滑川町月輪の神社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

月輪神社。祭神月輪兼実公

月輪神社の概要

月輪神社は、比企郡滑川町月輪にある神社です。月輪神社は、前方後円墳上に鎮座、和銅2年(709)に大宮氷川神社の分霊を奉斎、氷川社と称したと伝えられます。平安末期から鎌倉期にかけて当地が月輪家の荘園となっていたことから、当社北側に月輪兼実の守護仏を祀る勢至堂(福正寺)が建久7年(1196)に建立され、建長2年(1257)に月輪兼実(1149-1207)を併せ祀ってきたといいます。月ノ輪の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し明治4年村社に列格、明治41年地内の5社を合祀しています。

月輪神社
月輪神社の概要
社号 月輪神社
祭神 須佐能男命、月輪兼実
相殿 豊受姫神、木花佐久夜毘咩命、味鉏高彦根命、菅原道真
境内社 天満宮
祭日 例祭獅子舞7月15日、春祭4月15日、秋祭10月19日
住所 比企郡滑川町月輪418
備考 -



月輪神社の由緒

月輪神社は、前方後円墳上に鎮座、和銅2年(709)に大宮氷川神社の分霊を奉斎、氷川社と称したと伝えられます。平安末期から鎌倉期にかけて当地が月輪家の荘園となっていたことから、当社北側に月輪兼実の守護仏を祀る勢至堂(福正寺)が建久7年(1196)に建立され、建長2年(1257)に月輪兼実(1149-1207)を併せ祀ってきたといいます。月ノ輪の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し明治4年村社に列格、明治41年地内の5社を合祀しています。

境内掲示による月輪神社の由緒

当社は和銅二己酉(西暦七〇九)年に大宮氷川神社の神霊をこの地に分社したと鎮守名に記載されており、その後建久九戌午年三月、月輪兼実の霊を合祀して氷川大明神と称した。享保八年九月宗源宣旨により正一位の神位を贈られた。明治維新の際、明神号を廃し、氷川神社と称し 明治四十一年三月大字内の五社を当社に合祀して今までの氷川神社号を月輪神社と改称した。明治四年村社となり、大正五年指定村社に昇格した。(滑川町観光協会・滑川町教育委員会掲示より)

新編武蔵風土記稿による月輪神社の由緒

(月ノ輪村)
氷川社
村内の鎮守なり、月輪・明神を合祀す、祭神は前に云へる月輪某の靈を祭りしものといへり、神體は束帶せし像にて、其形菅神の像に似たり、別當福正寺
---
天王社
天神社
山神社
以上三社共に福正寺の持、 (新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による月輪神社の由緒

月輪神社<滑川町月輪四一八(月輪字宮前)>
当社の境内は古墳(前方後円墳)であり、社殿のある所がその墳丘である。昔は、杉の古木が林立していたが、伊勢湾台風でその多くが倒れてしまった。この時、社殿の前にあった樹齢六〇〇余年といわれる神木の杉の幹にも亀裂が生じ、危険な状態になったため、氏子一同は涙を呑んで伐採を決意した。
当社は、元来は氷川社といい、和銅二年(七〇九)に大宮氷川神社の分霊を奉斎したものと伝えられる。その後、建長九年(一二五七)三月に月輪兼実(一一四九-一二〇七)を祀り、更に享保八年(一七一三一)九月には宗源宣旨を受け、正一位に叙されたという。なお『風土記稿』は当社について「氷川社
村内の鎮守なり、月輪・明神を合祀す、祭神は前に云へる月輪某の霊を祭りしものといへり、神体は束帯せし様にて、その形菅神の像に似たり」と記している。別当は地内の福正寺で、その勢至堂は、建久七年(一一九六)、月輪兼兼実公が故あって東国に下向した際に建立したものと伝えられる。
月輪地内には、当社のほか、字橋戸上に八雲神社と浅間神社、字高根に高根神社があったが、明治四十一年三月二十日に当社に合祀された。この時、当社の境内社であった菅原神社と高根神社の境内社であった稲荷神社も併せて合祀された。しかし、その後、諸般の事情から八雲神社・浅間神社・高根神社の三社は旧地に戻された。(「埼玉の神社」より)


月輪神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)