成安寺。比企郡滑川町福田にある曹洞宗寺院

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成安寺。宝亀9年開創伝承の馬頭観音堂

成安寺の概要

曹洞宗寺院の成安寺は、心田山晴照院と号します。成安寺は、宝亀9年(778年)に白髪翁人が100日の大行を成し遂げ、馬頭明王を本尊とした晴照庵(晴照院)を建立して創建、以後天台宗寺院として馬頭観音堂が護持されていたといいます。徳川家康の関東入国後に、当地の領主となった酒井作右衛門重勝が、父重元の菩提を弔うために開基となり、当寺を曹洞宗寺院に改め、父の法名少林院殿心了成安大居士から、心田山晴照院成安寺と改号、慶安元年(1648)には江戸幕府より寺領10石の御朱印状を受領していました。

成安寺本堂
成安寺の概要
山号 心田山
院号 晴照院
寺号 成安寺
本尊 釋迦牟尼佛像
住所 比企郡滑川町福田1205
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



成安寺の縁起

成安寺は、宝亀9年(778年)に白髪翁人が100日の大行を成し遂げ、馬頭明王を本尊とした晴照庵(晴照院)を建立して創建、以後天台宗寺院として馬頭観音堂が護持されていたといいます。徳川家康の関東入国後に、当地の領主となった酒井作右衛門重勝が、父重元の菩提を弔うために開基となり、当寺を曹洞宗寺院に改め、父の法名少林院殿心了成安大居士から、心田山晴照院成安寺と改号、慶安元年(1648)には江戸幕府より寺領10石の御朱印状を受領していました。

新編武蔵風土記稿による成安寺の縁起

(福田村)
成安寺
禅宗曹洞派、大里郡久下村東竹院の末、心田山と號す、慶安元年寺領十石の御朱印を賜へり、開山龍宝義門は元和元年十月二十六日卒す、開基は酒井作右衛門重勝なり、慶長十九年二月八日卒す、法名法性院實峯成眞居士と云、酒井家譜を見るに、重勝が父七郎右衛門重元の法名を成安と云ば、當寺を開基せしは、重元の追福の爲にして、其法謚をもて寺號とせしなるべし、又は重勝が卒年を家譜には、慶長十八年五月伏見にて卒すと載たり、恐くは寺傳誤れるなるべし、本尊彌陀を安ず、
觀音堂。
鐘樓。元禄年中鑄造の鐘を掛、(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉宗教名鑑」による成安寺の縁起

成安寺
開基は、三州岡崎(現愛知県岡崎市)の酒井作右衛門重勝が、父重元の菩提を弔うために中興開基し、天台宗から曹洞宗に改宗した。重元は法名、少林院殿心了成安大居士と号されたと伝えられている。
それまで晴照院と号していたが、以後山号を心田山晴照院成安寺と改号した。慶安年間(1648~50年)徳川3代将軍家光から以後、寺領10石の御朱印を下賜された。
成安寺と改号する前葉、宝亀9年(778年)白髪翁人が100日の大行をなし、その満願の日、馬頭明王の出現で四天の晴日を見、感謝のため晴照庵を結んだ、と伝えられている。(「埼玉宗教名鑑」より)


成安寺所蔵の文化財

  • 福田馬頭観音堂

福田馬頭観音堂

馬頭観音堂
昔このあたりは山谷が深く常に霧がたれ込み、ほとんど日が照らず蛇なども多く、里人はなんとか雲霧が晴れないものかと悩みの種であった。
宝亀九年白髪の老僧が当地に立寄り里人の悩みを聞き百日の祈願を発心し観音経を読誦した、満願の日馬頭明王が現われ「汝の願い聞きとどける」と行って老僧は眼をさましました。
数日後の正月十九日から霧が晴れ、僧は晴照庵を建て自作の馬頭尊を作り感謝した。以後高野聖筮周がこの庵を再興し何度も改築され今の成安寺となり、馬頭尊は観音堂に安置された。
武運長久、交通の安全、愛馬家の信仰をうける。(滑川町観光協会・滑川町教育委員会掲示より)

成安寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「埼玉宗教名鑑」