上新倉氷川八幡神社。弘安年間に創建
上新倉氷川八幡神社の概要
上新倉氷川八幡神社は、和光市新倉にある氷川八幡神社です。上新倉氷川八幡神社は、弘安年間(1278-1288)に創建したと伝えられ、江戸時代には上新倉村の鎮守社となっていたといい、明治初年には村社に列格していたといいます。
社号 | 氷川八幡神社 |
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祭神 | 須佐之男尊、誉田別尊 |
相殿 | - |
境内社 | 元宮神社、御嶽神社、下井戸稲荷神社、神明社、天神宮 |
祭日 | 例大祭10月11日、祈念祭5月3日、だるま市元旦 |
住所 | 和光市新倉2-18-60 |
備考 | 旧村社 |
上新倉氷川八幡神社の由緒
上新倉氷川八幡神社は、弘安年間(1278-1288)に創建したと伝えられ、江戸時代には上新倉村の鎮守社となっていたといい、明治初年には村社に列格していたといいます。
新編武蔵風土記稿による上新倉氷川八幡神社の由緒
(上新倉村)氷川社
年貢地、上ノ郷にあり、村の鎮守なり。勧請の年暦詳かならず。(新編武蔵風土記稿より)
境内掲示による上新倉氷川八幡神社の由緒
和光市新倉の氏神様氷川八幡神社は約七百年前の鎌倉時代弘安年間に創建され三百年前万治三庚子年十二月十五日流造り本殿再建と伝えられて居ります。太政官布告により明治元年四月十日神祇官、神官転制村社となり昭和十八年新倉村は白子村と合併して大和町となりましたがこの時社有地の一部五百四十三坪を無償提供し、一の鳥居を三十五メートル後退した現在地に移設し宮坂道を開通させました。
正和二十八年宗教法人法に定める神社となりました。昭和四十年頃から急激に開発され町の人口も三万人を超え昭和四十五年十月には和光市となりましたが、文明開化は、大気汚染などの公害をもたらし老杉三百年を超え昼なお暗き境内うっそうとした鎮守の森は次々と枯損し正和四十八年にはついに大樹皆無となりました。
老朽化甚だしかった草葺の社殿を取毀し昭和二十六年拝殿幣殿本殿上屋など改築、昭和五十二年十月十一日氏子崇敬者四百三十八名からの奉賛により本殿を神明造りに改め手水舎新築、天水おけ、幟竿など新設して社殿の面目を一新しました。
心のふるさと鎮守の社はいつも皆様方の弥栄を御祈りしております。(境内掲示より)
「埼玉の神社」による上新倉氷川八幡神社の由緒
天平宝字二年(七五八)に新羅人七四人を移住させて新羅郡が設置された。新羅郡は『延喜式』に新座郡とも書かれ、当地はその中心をなした地域であったことからその後新倉と称したという。地内には新羅王子の居跡と伝える午王山(牛房山)がある。また、湯原文左衛門家譜(萩藩閥閲録)によれば、湯原経景は寛喜年間(一二二九-三二)に武蔵国樽沼堤の修復を命じられ、この時「新倉井樽沼」の地頭職を与えられたとあり、当地の古い開発をうかがわせる。
新倉と隣村下新倉は元は一村であったといわれ、下新倉の鎮守も当社と同社名である。そちらの社は寛治五年(一〇九一)にまず八幡宮を勧請し、文禄三年(一五九四) に氷川社を相殿に祀ったとの由来を持つ。一方当社の創建は下新倉のそれよりやや下る弘安年中(一二七八〜八八)のことで、万治三年(一ハ六〇)に社殿を再建したと伝えられる。下新倉と一村であった経緯を考えるに、当社も八幡社が先に祀られたものであろう。旧本殿の帳には「奉掛八幡大菩薩宝暦三共酉□(一七五三)霜月吉日別当満願寺現住法印承永」との墨書がある。
神仏分離を経た明治二十三年に八幡大菩薩像を燃やし、その灰を本社裏手に埋けて石祠を建て「元宮様」として祀った。(「埼玉の神社」より)
上新倉氷川八幡神社所蔵の文化財
- 和光市氷川八幡神社社叢ふるさとの森
和光市氷川八幡神社社叢ふるさとの森
身近な緑が、姿を消しつつある中で、貴重な緑を私達の手で守り、次代に伝えようとこの社叢が、「ふるさとの森」に指定されました。
この神社は、約七百年前の鎌倉時代弘安年間に創建されたと伝えられる由緒あるもので地域の人々の崇敬を受けるとともに、「鎮守の森」として親しまれています。
林相としては、主にスギ・アカマツ・サクラ・スダジイなどから構成されています。(埼玉県掲示より)
上新倉氷川八幡神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿