妙典寺。和光市下新倉にある日蓮宗寺院

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妙典寺。領主墨田五郎時光が創建

妙典寺の概要

日蓮宗寺院の妙典寺は、長光山と号します。妙典寺は、文永8年(1271年)に日蓮聖人が佐渡へ配流される途次、知己のあった当地領主墨田五郎時光と再会、墨田時光の妻が難産であることを告げられ、時光の館へ赴き、持仏堂(法華堂)で安産祈願の護符をしたため、池の水を汲んで時光の妻に飲ませたところ、子を出産できたことから、時光は館を寺に造り替えて創建、自身も出家して日徳と改めたといいます。日蓮聖人は日向上人を当寺住職に派遣、時光は新曾妙顯寺をさらに創建、当地周辺の日蓮宗の中心寺院の一つです。

妙典寺
妙典寺の概要
山号 長光山
院号 -
寺号 妙典寺
住所 和光市下新倉4-13-60
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 -
備考 -



妙典寺の縁起

妙典寺は、文永8年(1271年)に日蓮聖人が佐渡へ配流される途次、知己のあった当地領主墨田五郎時光と再会、墨田時光の妻が難産であることを告げられ、時光の館へ赴き、持仏堂(法華堂)で安産祈願の護符をしたため、池の水を汲んで時光の妻に飲ませたところ、子を出産できたことから、時光は館を寺に造り替えて創建、自身も出家して日徳と改めたといいます。日蓮聖人は日向上人を当寺住職に派遣、時光は新曾妙顯寺をさらに創建、当地周辺の日蓮宗の中心寺院の一つです。

新編武蔵風土記稿による妙典寺の縁起

(下新倉村)妙典寺
除地一丁四方、小名久保にあり、法華宗、新曾村妙顯寺の末寺、山を長光山と號す、開基を墨田五郎時光と云、文永の頃の人、此地の領主なり、僧日蓮を崇信し、其身も遂に僧となり、寺院創建の願を起し、開山のことを師日蓮に請ひたりしに、思ふ所ありと弟子日向に命じ、當寺及び足立郡新曾村妙顯寺をたつ、されど日蓮を初祖とし、日向を第二祖とす、初文永八年十月十日、時光の妻難産にて苦にたへず、時光是を患ふれども術なし、其夜夢に人あり告て云、明日日蓮聖人此新倉の地を過ぐべし、彼聖人の加持を得たらんには、其儘安産すべしと、教の如くその日聖人當村に来りしかば、其符をこひ得て與へしに、形の如く平産ありしと云ふ、是日蓮法を固執せし罪により佐渡國へ配せられし時の事とぞ、是より時光深く聖人を信ぜし餘、弘安中父子共に薙髪し、かの宗に入り時光を日徳と號し、其子を日堅と號せしと云へり、當寺は日向以来あまたの年を經、堂宇次第に衰廢せしを、日譽上人のときにいたり、彼上人再び興せしかば、是を中興とす、此日譽は文禄四年三月晦日寂す、又故ありて紀伊家及び賀州の夫人、養源院渇仰の心淺からざりしにより寺も亦盛なりしが、今に至りては兩家よりの寄附もたへ、中古の如くには非ず、此寺前にいへる如く、時光宗旨歸依の根本にして、妙顯寺にをとるべくもあらざりしが、中葉より妙顯寺の盛なるに及ばず、今は其末寺とはなりしなり、
本堂。七間に五間半、本尊三寶を安置す、又祖師の像あり、相傳ふ此祖師の像は、昔久遠成院日親聖人四十二歳の時、ぶんあん四年の春除厄の爲に、高祖の像を自ら彫刻し、諸國を奉持し、後下總國中山の時佛堂に安せしを、ゆえありて賀州の養源院感得せられたりしが、彼夫人當寺の靈地へしばしば詣られしにより、後遂に此像をも寄附せられしかば、長く本堂に安せり、其餘妙見の像、及黄金佛等をも寄附れられしが、今黄金佛は紛失せりと云、
七面堂。本堂に向ひ左にあり、前に鳥居を建つ、
祖師堂二箇所。其一は三間四面、本堂より西南の隅にあたり、少し高き處にあり、其一も同じ邊池の側にあり、小堂なり、共に祖師の石像を安、
古碑二基。本堂の西南の隅にある祖師堂の側にあり、貞和二年七月十一日、及□元乙亥の三字かすかに見ゆ、其餘の字滅して讀得ず、建治・康正の元年、共に干支あたれども、建治は隔ること遥かなれば、恐くは康正なるべし、
子安池。二間四方許の池なり、寺傳に昔日蓮聖人墨田五郎時光が妻の産を加持せられし時、經文を讀誦し、この地のくぼみたる所を懐中せし楊枝にて穿ちたりければ、水忽ちに湧出しける、この水を産婦の口にそゝぎ、符を呑しめたり、それより芽を生じて成木し、大樹となりしとぞ、元の木は枯れ幹の朽たるもの池水の上に横たはり、蘗生出て今に存せり、以上云所のごとき奇怪の説なれば信ずべきに非れど、寺僧の傳るまゝをしるしつげぬ、ことに罪ありて配せらるゝ人のかゝることありしと云も、無稽のことならん、(新編武蔵風土記稿より)


妙典寺所蔵の文化財

  • 子安の池(和光市史跡)

子安の池

昔、鎌倉時代の文安八年の秋(一二七一年、元の来襲のあった頃)日蓮上人は佐渡へ向う途中、武州新倉の領主墨田五郎時光に再会した、
日蓮上人は時光の姿に悩みのあるのを見て訳を聞くと、妻が三日以来の難産で苦しんでいることを知らされた。
さっそく日蓮上人は時光の館に行き、若い柳の枝を折って先をつぶして筆がわりにし、持仏堂(法華堂)で安産祈願の護符をしたため、庭に湧きえている泉を汲んで産婦の口にそそいでやった。
しばらくして無事に男子(幼名徳丸、出家して日堅となる)が生まれた。
これが縁となり、その後時光は日蓮上人に帰依して日徳と改め、館を寺に造りかえた。
爾来、この池を「子安の池」と呼ぶようになった。
池水は今日まで涸れることなく、またいまなお安産を願う人々によって護符と共に利用されている。
なお、当寺にこの事象を伝える板碑・絵馬などが格護されている。(和光市教育委員会・和光市文化財保護委員会掲示より)

妙典寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿

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