岩平観音堂。武蔵国三十三ヶ所霊場
岩平観音堂の概要
真言宗豊山派寺院の岩平観音堂の創建年代等は不詳ながら、江戸期には観音寺と号す寺院でした。明治7年(1874)に廃寺となり、観音堂として残され、大正年間の中川河川改修に伴い当地隣接地に移転、地元自治会により管理されているそうです。武蔵国三十三ヶ所霊場32番です。
山号 | - |
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院号 | - |
寺号 | - |
住所 | 北葛飾郡松伏町下赤岩299-2 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
本尊 | 十一面千手観音像 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
岩平観音堂の縁起
岩平観音堂の創建年代等は不詳ながら、江戸期には観音寺と号す寺院でした。明治7年(1874)に廃寺となり、観音堂として残され、大正年間の中川河川改修に伴い当地隣接地に移転、地元自治会により管理されているそうです。
「松伏町史文化財編」による岩平観音堂の縁起
岩平観音堂(旧観音寺)
『新編武蔵風土記稿』には「下總国葛飾郡堤台村報恩寺(後に同郡中野台村に移転。現千葉県の山車)門徒、本尊勢至菩薩」と記載されている。宗派は報恩寺門徒であることから真言宗豊山派である。創建年代は不詳である。
墓地には、寛永五年(一六二八)銘の宝篋印塔を最古に寛文十二年(一六七二)銘の念仏供養塔の石造物が存在する。
『武蔵国郡村誌』では明治七年(一八七四)に廃寺となったことが記され、廃寺後は岩平組の寄合所のような場所になった。『境内記念碑』には大正三年(一九一四)から始まる中川河川改修により移転を余儀なくされ、隣接地の現在地に移転したとある。その後に現在の集会所に建て替えられた。
『町史民俗編』によれば当寺は「武蔵国三十三ヶ所巡礼・三十二番目」の札所であり、十二年に一度午年の本尊一斉開帳が行われている。廃寺後も脈々と続き、現在も巡礼者が訪れるという。
現在は集会所を兼ねており、地元自治会により管理されている。(「松伏町史文化財編」より)
新編武蔵風土記稿による岩平観音堂の縁起
(下赤岩村)
觀音寺
下總國葛飾郡堤臺村報恩寺門徒、本尊觀音(新編武蔵風土記稿より)
岩平観音堂の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「松伏町史文化財編」