腰越熊野神社。比企郡小川町腰越の神社
腰越熊野神社の概要
腰越熊野神社は、比企郡小川町腰越にある神社です。腰越熊野神社は、安永7年(1778)の創建と伝えられ、江戸期には自性院(永享10年1438年創建)持ちの社だったといいます。境内社の北山開運稲荷は、腰越熊野神社の創建と同時期から祀られ、小川町の料理屋や芸者などからの信仰を集めていたそうです。
社号 | 熊野神社 |
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祭神 | 伊弉冉命、速玉男命、事解男命 |
相殿 | - |
境内社 | 八坂社、天満宮、大黒天、北山開運稲荷神社 |
祭日 | 例大祭10月15日、天王様7月15日、北山開運稲荷5月5日 |
住所 | 比企郡小川町腰越353 |
備考 | - |
腰越熊野神社の由緒
腰越熊野神社は、安永7年(1778)の創建と伝えられ、江戸期には自性院(永享10年1438年創建)持ちの社だったといいます。
新編武蔵風土記稿による腰越熊野神社の由緒
(腰越村)
熊野社
自性院持、(新編武蔵風土記稿より)
「小川町の歴史別編民俗編」による腰越熊野神社の由緒
熊野神社(腰越三五三)
腰越一・二区で祀る熊野神社は、通称を「おくまん様」といい、神仏分離までは熊野大権現と称していた。祭神は伊弉冉命・速玉男命・事解男命の三柱で、社殿は氏子区域を一望できる北山の中腹にある。伝えによれば、熊野神社は安永七年(一七七八)十二月の創立であるという。また、『新編武蔵風土記稿』に「熊野杜自性院持」と記されているように、山麓にある自性院の管理下にあった。
特別な信仰はないが、腰越一・二区の鎮守として信仰が厚い。山麓から社殿の前まで一直線に伸びる長い石段は、神社前庭拡張工事として昭和九年から同十一年まで三年をかけて建設されたものであるが、この工事に際し、当時の氏子二二五世帯は進んで各々三日間の勤労奉仕を行った。これも、氏子の信仰の厚さを示す一例である。
境内には、いくつかの末社があるが、中でも北山稲荷は、開運や商売繁昌に御利益があることで知られている。この社については、「おくまん様が祀られたのと同じころ、どこからか稲荷様の分霊を受けてきて祀ったもの」と伝えられており、とりわけ小川の町場の料理屋や芸者たちによって厚く信仰されてきた。(「小川町の歴史別編民俗編」より)
「埼玉の神社」による腰越熊野神社の由緒
熊野神社<小川町腰越三五三(腰越字北山)>
「おくまん様」の通称で親しまれている当社は、氏子区域である腰越一・二区を一望できる山の中腹にあり、閑静なその境内は、樹齢二百年を超えるという大杉をはじめとする山林に包まれている。山の下から続く、境内に至る長い石段の途中には、江戸時代に別当であった自性院があり、神仏習合のころの名残が感じられる。
当社の創祀について、氏子の間では江戸時代中期の安永七年(一七七八)十二月の創建で、宏壮な社殿が造営され、熊野大権現と称して庶民の崇敬が極めて厚かったと言い伝えられている。檜皮葺の屋根を持ち、要所要所に彫刻が配され、古風な趣が感じられる当社の本殿は、棟札等がないため断言はできないが、安永七年の造営当時のものであろう。
神仏分離を経て、明治四年に村社になり、昭和九年から十一年にわたり大規模な参道改修と神社前庭拡張工事が行われた。この工事は、永らく当社の氏子総代や自性院の檀徒総代を務め、信仰心の厚いことで知られた峯岸四郎が中心となり、七百余名の寄附を募って行われた大規模なもので、当時の氏子一三五戸の各々三日間の勤労奉仕を得て竣工したことが境内の石碑から知られる。ちなみに、この工事に使われた石灰石は、腰越中区の落合山から切り出したものである。また、昭和四十四年には、老朽化した覆屋兼拝殿の再建も行われている。(「埼玉の神社」より)
腰越熊野神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「小川町の歴史別編民俗編」
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)