下里八宮神社。比企郡小川町下里の神社

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下里八宮神社。近郷八宮神社の総社とも伝承される社

下里八宮神社の概要

下里八宮神社は、比企郡小川町下里にある神社です。下里八宮神社の創建年代等は不詳ながら、当初は志賀との境に鎮座、近郷七ヶ村の総鎮守として祀られていたものの、貞観10年(868)かつて寺があった当地へ遷座、近郷7ヶ村に分霊を配祀、八宮神社の総社と称されたと伝えられています。江戸期には下里村の鎮守として祀られ、明治4年村社に列格、明治41年愛宕神社、天神社を合祀しています。

下里八宮神社
下里八宮神社の概要
社号 八宮神社
祭神 高龗神・伊豆能賣神・墨江三龗神・海見三柱神
相殿 -
境内社 天神社、稲荷社、八坂社、三峰社
祭日 例大祭10月15日、祈年祭4月3日
住所 比企郡小川町下里912
備考 -



下里八宮神社の由緒

下里八宮神社の創建年代等は不詳ながら、当初は志賀との境に鎮座、近郷七ヶ村の総鎮守として祀られていたものの、貞観10年(868)かつて寺があった当地へ遷座、近郷7ヶ村に分霊を配祀、八宮神社の総社と称されたと伝えられています(江戸期には、下里の他、小川・下横田・能増・越畑・中爪・杉山・広野・志賀に鎮座)。江戸期には下里村の鎮守として祀られ、明治4年村社に列格、明治41年愛宕神社(旧地愛宕山)、天神社を合祀しています。

新編武蔵風土記稿による下里八宮神社の由緒

(下里村)
八宮明神社
村内の鎮守なり、
別當寶壽院。新義眞言宗、入間郡今市村法恩寺末、正理山と號す、本尊薬師を安ぜり、
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愛宕社
神明社
共に同院持、(新編武蔵風土記稿より)

「小川町の歴史別編民俗編」による下里八宮神社の由緒

八宮神社(下里九一二)
下里の鎮守である八宮神社の由緒は、『神社明細帳』に「往古ハ村の東方志賀村々境ニ鎮座アリテ近郷七ヶ村ノ総鎮守タリシカ年月事由不詳現場ノ所ヘ移転スト云コト古老ノ口碑ニ残レリ」と記されている。このことは、氏子の間にも、「初めは村の東方の志賀村との境に鎮座していたが、貞観十年(八六八)に現在の社地に移り、近郷七か所に分霊を配祀し、八宮神社の総社と称せられた」との口碑が残る。本殿の裏側に祀ってある祠は、右の口碑に伝えられる七体の分霊の神璽で、古くは幣殿の両側に祀られていた。
文書等の記録を欠くため、創建の年代や、現在地への遷座の時期などは不明であるが、口碑に「八宮神社の現在の境内地には、元は大きな寺があったという。そこに八宮神社を選宮したと聞いている」との伝えがあることから、遷座には境内を拡張することや、鎮守の社を村の中央部へ移そうとの意図があったものと推察される。
江戸時代には、正理山宝寿院という真言宗の寺院が別当として祭祀を行っていたが、神仏分離によって廃寺になった。明治四年に村社となり、明治四十一年十二月に愛宕神社、天神社を合祀した。(「小川町の歴史別編民俗編」より)

「埼玉の神社」による下里八宮神社の由緒

八宮神社<小川町下里九一二(下里字笠郷)>
下里は小川盆地の東端に当たり、地内を槻川が屈曲しながら東流する。当社はこの槻川沿いの地、仙元山(標高二九八メートル)の麓に鎮座している。仙元山に続く尾根には平安期築造の青山城趾(県選定重要遺跡)があり、「青木家譜」によれば、藤原成之の後裔氏宗が天慶の乱後ここに居住し、青木と改姓し、鎌倉幕府、鎌倉府、関東管領に従ってしばしば戦功をたてたとされる。
社伝によると、当社は初め村の東方に当たる志賀村との境に祀られていたが、清和天皇の貞観十年(八六八)に現在の地に遷座した。その後、近村七か所に分霊したことから、八宮神社の総社と称せられたという。
『風土記稿』には「八宮明神社 村内の鎮守なり、別当宝寿院、新義真言宗入間郡今市村法恩寺末、正理山と号す、本尊薬師を安ぜり」とある。同書の比企郡の項には、ほかに小川村・下横田村・能増村・越畑村・中爪村・杉山村・広野村・志賀村の各村に八宮明神社あるいは八宮社が見える。
口碑に「当社は宝寿院の寺領内に祀られていた」とも伝えられるが、明治初年には既に宝寿院が廃寺となっていることから、詳細については明らかではない。
主祭神は高龗神・伊豆能賣神・墨江三龗神・海見三柱神である。(「埼玉の神社」より)


下里八宮神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「小川町の歴史別編民俗編」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)