四津山神社。旧明王寺の境内鎮守、諸社を合祀
四津山神社の概要
四津山神社は、比企郡小川町高見にある神社です。四津山神社の創建年代等は不詳ながら、愛宕神社と称し、山麓にある高見山明王寺の境内鎮守だったといいます。宝暦9年(1759)に四津山へ遷座、本地佛だった勝軍地蔵像は明王寺住職重誉(寛政9年1797年没)が京都から授かったとされることから、本地佛を授かったのを機に遷座したものとも思われます。明治40年、高見・能増の11社を合祀しています。
社号 | 四津山神社 |
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祭神 | 愛宕神 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | 春季例大祭4月24日、フセギ7月第一日曜日 |
住所 | 比企郡小川町高見1125 |
備考 | - |
四津山神社の由緒
四津山神社の創建年代等は不詳ながら、愛宕神社と称し、山麓にある高見山明王寺の境内鎮守だったといいます。宝暦9年(1759)に四津山へ遷座、本地佛だった勝軍地蔵像は明王寺住職重誉(寛政9年1797年没)が京都から授かったとされることから、本地佛を授かったのを機に遷座したものとも思われます。明治40年、舳執神社(辺取神社)・阿夫利神社・疱瘡神社・尺司神社・六所神社・浅間神社・天神社・八雲神社・熊野神社、能増八幡神社・能増菅原神社の11社を合祀しています。なお高見では、江戸期には当地周辺(高谷・古里)でも祀られていた舳執神社(辺取神社)が村の鎮守として祀られていました。舳執神社は、神体が鉄剣であることや当地に残る大男伝承から、古代鍛冶集団との関わりが指摘されています。
新編武蔵風土記稿による四津山神社の由緒
(高見村)
舳執明神社
村の鎮守なり(新編武蔵風土記稿より)
「小川町の歴史別編民俗編」による四津山神社の由緒
四津山神社(高見一一二五)
高見にある四津山は、峰が四つあるような山容であることからその名がある。四津山神社は、その山頂に鎮座しており、神社の裏手には四津山城の跡と伝えられる中世の城跡がある。
四津山神社は、元来は愛宕神社と称し、山麓にある高見山明王寺の境内鎮守であった。そのため、今でも四津山神社を「愛宕様」と呼ぶ人があり、本殿には白馬に乗った勝軍地蔵像が納められている。この像は、明王寺の住職で寛政九年(一七九七)に没した重誉が京都から受けてきたものといい、神社が明王寺の持ちであったころは、寺の中にこの像が祀ってあり、神社の祭礼時には、寺から僧侶がこの神体を胸に携えて持って来て祭りを行っていたという。神社の創建について詳細は不明であるが、『神社明細帳』は「往古明王寺境内ニ有シカ宝暦九己卯年三月二十四日山越ニ安置ス」と記している。
愛宕神社が四津山神社と社号を改めたのは明治四十年のことで、高見の地内から辺取神社・阿夫利神社・疱瘡神社・尺司神社・六所神社・浅間神社・天神社・八雲神社・熊野神社、能増の地内から八幡神社・菅原神社の計一一社を合祀したことによる。(「小川町の歴史別編民俗編」より)
「埼玉の神社」による四津山神社の由緒
四津山神社<小川町高見一一二五(高見字山越)>
比企丘陵のなかでも最も北に位置し細長い独立丘陵を形成し、その頂が四つあることから四ツ山と呼ばれている。
その東側の山頂部に当社が鎮座している。当社は、元来は明王寺の境内鎮守として祀られていたが、宝暦九年、(一七五九)に現在の鎮座地である字山越に移された。明王寺は『風土記稿』に「新義真言宗、京都蓮台寺末、高見山正覚院と号せり、開山詳ならず、中興開山を元重と云、永享四年(一四三二)二月四日示寂す、本尊は地蔵なり」と記されている。また一説には、中興開山を光清とし、寛文年間(一六六一-七三)のことと伝えられている。古老の伝えによると、同寺が奥の院として京都から移してきた愛宕様の本体を祀ったという。それが現在も本殿内に奉安されている勝軍地蔵で、高さ三〇センチメートルほどの白馬に乗った見事な像である。その厨子には「高見山明王寺正覚求之関口出生」と銘が入っている。なお、像を受けた住持は「法印重誉」で寛政九年(一七九七)に寂したと伝え、関口家はその裔に当たる。
明治四十年四月三十日に、字竹之鼻の村社辺取神社、字山越の阿夫利神社、字四ツ山の疱瘡神社・八雲神社・熊野神社、字上之前の尺司社、字六所の六所社、字山越の浅間神社、字日丸の天神社、能増字八幡の村社八幡神社、同字町場の菅原神社の一一社を合祀した。これを機に当社は現社号に改められた。(「埼玉の神社」より)
四津山神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「小川町の歴史別編民俗編」
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)