靭負慈光尊。比企郡小川町靭負にある旧跡・名所

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靭負慈光尊。飢饉に備えるための戒めとして造立

靭負慈光尊の概要

靭負慈光尊は、比企郡小川町靭負にある名所旧跡です。靭負慈光尊は、国道バイパス改修工事中に(小名)慈光平から出土した石碑が約600年前に造立された供養塔であったことから、東武竹沢駅前路傍の石仏二体(弁財天・庚申)と併せて保存するため、令和元年に建立、石碑が出土した地名から慈光尊と命名したといいます。なお、(小名)慈光平は、慈光寺前身の地だと伝えられるそうです。

靭負慈光尊
靭負慈光尊の概要
旧跡・名所名 靭負慈光尊
区分 史跡
入場時間 -
入場料 -
住所 比企郡小川町靭負
備考 -




靭負慈光尊の縁起

靭負慈光尊は、国道バイパス改修工事中に(小名)慈光平から出土した石碑が約600年前に造立された供養塔であったことから、東武竹沢駅前路傍の石仏二体(弁財天・庚申)と併せて保存するため、令和元年に建立、石碑が出土した地名から慈光尊と命名したといいます。なお、(小名)慈光平は、慈光寺前身の地だと伝えられるそうです。

境内掲示による靭負慈光尊について

慈光尊の由来
ここ小川町靱負(区)は遠く平安の末期から鎌倉時代にかけて地方武将としてその名を馳せた武蔵七党の支族竹沢二郎行高が居を構えた所(竹沢館)、下って天正十八年(一五九〇)小田原北條支配の腰越城が豊臣勢による北條攻で落城した際城主(守護職)山田伊賀守一族の一部が当地にのがれて農民として定住したとされる地、更にはこの奥の台地慈光平は関東天台の中心慈光寺(ときがわ町西平)前身の地であったともされているところ、かてて加えてこの区は交通の要衝に位置することなど正史と伝説、そして自然にも恵まれた条件の下で今日を迎えてきた。
こうした中一昨々年の始め国道バイパス関連野竹川改修工事中石碑が出土、これの紋章などから六百余年前の供養塔と判明、続く平成二年末小川町教育委員会が主催した石佛調査では、東武竹沢駅前路傍の石仏二体がいずれも三百余年を経た貴重なものと判断された。
さて、これより先区では駅前以北の町道(二〇六号)の土堤を整備して「躑躅どおり」としたが、たまたまこの道路が都市計画関連道路として拡巾改良となるため、町では特に計らい、環境景観等を配慮した工事を施工、これが動機となって石佛保存運動が台頭、これの一角に設置を見たものである。
慈光尊名は石碑出土場所に因み、他の二体(弁財天・庚申)と合せての呼称、施設は「房」と名付け、資金は協賛金を充てた。(以下省略)(小川町竹沢東部郷土の文化財保存を勧める会掲示より)


靭負慈光尊の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」