慈光寺。比企郡ときがわ町西平にある天台宗寺院
猫の足あとによる埼玉県寺社案内

慈光寺。比企郡ときがわ町西平にある天台宗寺院

慈光寺の概要

天台宗寺院の慈光寺は、都幾山一乗法華院と号します。慈光寺は、興福寺(法相宗)の僧慈訓が天武天皇2年(673)観音堂を建立、その後鑑真和上の弟子釈道忠が開山したといいます。治承年間(1177-1181)には源頼朝の祈願所となり釈迦堂の寄進を受けるなど、鎌倉時代には隆盛を極め、75坊を擁し、天台別院と称していました。またこのころの住持栄朝は、臨済宗靈山院を開創、台(天台宗)・密(密宗)・禅(禅宗)の三宗を兼学する寺院となっていました。徳川家康が関東入国した翌年の天正19年(1591)寺領100石の御朱印状を受領、江戸期には29坊を擁していました。坂東三十三ヶ所観音霊場9番、関東九十一薬師霊場33番、関東百八地蔵霊場14番です。

慈光寺本堂
慈光寺の概要
山号 都幾山
院号 一乗法華院
寺号 慈光寺
本尊 十一面千手千眼観世音菩薩像
住所 比企郡ときがわ町西平386
宗派 天台宗
葬儀・墓地 -
備考 -



慈光寺の縁起

慈光寺は、興福寺(法相宗)の僧慈訓が天武天皇2年(673)観音堂を建立、その後鑑真和上の弟子釈道忠が開山したといいます。釈道忠は廣惠菩薩とも称される高僧で武蔵国出身、浄法寺(緑野寺)を建立、大慈寺を再建した他、弟子には天台宗第二代座主円澄(埼玉郡出身)がいます。治承年間(1177-1181)には源頼朝の祈願所となり釈迦堂の寄進を受けるなど、鎌倉時代には隆盛を極め、75坊を擁し、天台別院と称していました。またこのころの住持栄朝は、臨済宗霊山院を開創、台(天台宗)・密(密宗)・禅(禅宗)の三宗を兼学する寺院となっていました。室町時代には寺運衰微したものの、徳川家康が関東入国した翌年の天正19年(1591)寺領100石の御朱印状を受領、江戸期には29坊を擁していました。昭和60年に釈迦堂・釈迦如来坐像、仁王像、蔵王堂・蔵王権現立像、鐘楼を焼失してしましましたが、数多くの寺宝を有しています。

新編武蔵風土記稿による慈光寺の縁起

(平村)
慈光寺
慈光山の上にあり、麓より登ること九丁餘なり、當寺を都幾山一乗法華院と號す、開山は廣惠菩薩なり、【元享釋書】【本朝高僧傳】等を按に、釋道忠鑑眞和尚を戒師と為て、律嚴密を持し鑑眞の弟子持戒第一と稱す、或は東州に導師し、或は内州に利濟す、到る所の民菩薩をもつてこれを呼ぶ、武州慈光寺を建て第一祖と爲り、遐邇徳に歸すと是なり遷化の年月は傳へざれど、又【釋書】に釋圓澄は、武州埼玉郡の人にして、寶龜二年に生れ、十八歳にて、道忠菩薩に事ふとあれば、其年歴も大抵推て知らる、當寺昔は大伽藍にして、何の頃よりか、台・密・禅の三宗を兼學せしと云、治承の頃は右大将賴朝の祈願所となり、寺領寄附ありし等の事は、【東鑑】にも見えたり、其文下に出す、それより後漸々衰微に及びて昔のさまもなかりしを、天正十九年村内にて、寺領百石の御朱印を賜ひ、其後東叡山の末となりしより、再び舊觀に復せり、今縁起一巻あり、當寺開基以前白鳳中に、役小角始て此山に登り、又釋慈訓も久しく爰に住し、及び廣惠開基の後、傳教慈覺打續きて住せし由を云へど、此こと【釋書】に載せざれば疑なきにあらず、ことに此縁起は近き年の集録にして杜撰の説まゝ見えたれば、悉く採録すべかざるをや、又右大将賴朝の願文及び寄附状あり、左の如し、
(文面省略)
前に載る文治の文書は【東鑑】文治五年六月廿九日の條に據る所の文に、同くして恐らくは、後世此文によりて、修せしものと思はる言葉のさま、是を其書に合せ考るに、全くうけかひがたきこと多し、又【東鑑】同年十月廿二日戊申、彼送愛染明王御供米、於慈光山云々、又建久三年の條五月八日己卯、法皇四十九日御佛事、【中略】僧衆武蔵國慈光寺十口とあり、これ等によれば古くより大寺にして、連綿たること知るべし又建久二年の文書は【東鑑】等に更に沙汰なきことなり、ことに千二百町の田畠を、寄進せしと云も信用しがたし、當寺二十七世嚴耀は、秩父下野守平重綱の弟にして、畠山次郎重忠の大伯父なり、されば境内に重忠の墓其外名将の古墳なりと寺僧の傳ふるもの許多なれど、これを見るに僧侶の碑或は供養塔、若くは逆修の碑と思はるゝもの多く、される名将の碑と覺しきはなし、
寶物
東照宮御畫像一軸。大猷院殿の御筆にして、天海僧正讃し奉れり、語は左に載す
諸佛救世者 佳於大神通 爲悦衆生故 現無量神力
大般若經廿一巻。
縁起云、貞観十三年、前上野國權大目、安部朝臣小水麻呂の書寫にして、元は六百巻ありしと、又和銅元年多治比眞人羊人書寫の物ありしといへど、今それとおぼしきものなし、住僧の考には小水麻呂の書せしと云中に、料神もことにして、且文字の體もおなじからざるものあるは、羊太夫の手に成りしならんといへど別に奥書等もなく、證とすべきことなければ、おぼつかなし、彼小水麻呂書寫の巻末に記せし文、左の如し、(文面省略)
一品經三十二巻
經文の軸は赤銅なゝこにて、唐草の高彫、標題も赤銅にて文字を打出せり、紺紙・金泥・銀泥・白紙・墨跡品々あり、書寫の次第左の如し、(書写次第省略)
法螺一。役小角が用ひしものなりと云、古物とは見ゆれど、其頃のものともおもはれず、
五鈷。慈覺大師の用ひしものと云、金滅金にて古色なり、以下五品、共に同じ、
獨鈷、羯磨、輪寶、鈴四。四共に徳治二年丁未と銘あり、外に花押の如きもの見ゆれば、定かならず、
二王門跡。焼失して、今は礎のみ殘れり、
蔵王社。寺名の條に出せし神鏡は、元此に置しと云、
毘沙門堂。
八社權現社。一山守護の社なり、明應年中の鰐口ありしといへば、舊き社なるべし、今その器は失ひ、銘文のみを存せり、左の如し、
武州卯都幾山慈光寺八所權現鰐口 明應七天戊午十一月廿六日 大工家吉敬白。
山神社
觀音堂
坂東札所九番千手觀音にして、春日の作なり、立像にて長八尺餘、側に十一面觀音の像を安ず、これは畠山重忠が、身の丈とひとしければ、重忠丈競の本像といへど、由来詳ならず、外に廣惠の像を安ぜり、
釋迦堂
往古の堂は、右大将賴朝の建立し玉ひしなりと云、此堂は元禄六年奥州津輕の僧、見性と云もの諸國を經歴し、諸人の勸化をもて再建すと云、其僧の碑今も山内にあり、
開山塔
形寶篋塔の如くにて、其様たくみを極めり、飛騨の番匠作れりと云、
鐘樓。鐘の銘文左の如し、
奉治鑄六尺推鐘一口
天台別院慈光寺
大勸進遍照金剛深慶、
善知識人店沙門妙空
大工 物部重光
寛元三年乙巳五月十八日
願主權律師法橋上人位榮朝
按に【東鑑】文治五年六月廿九日の條に引て云、去治承三年三月二日伊豆國より、藤九郎盛長を御使として、洪鐘を鑄さしめ、御署名を供の鐘の面に刻まれ、慈光山にをさめられし由載せたれば、此鐘もしくは改鑄なるにや、されど寛文三年は治承三年を去こと僅に六十六年なれば、自ら別に造りし鐘なるも知るべからず、
--(塔頭の一部割愛)--
寶聚庵
此庵以下は天台宗を奉ぜり、開山大晤徹貞観二年九月六日示寂、本尊地蔵、
寶樹坊
開山賴憲と云、本尊不動、
井上坊
本尊不動
不動坊
こゝも不動を置り、
中ノ坊
本尊不動
阿彌陀堂
浄土院と號す、念佛堂とも唱へり、
鐘樓。元禄八年鑄造の鐘を掛く、
西蔵坊蹟
密宗を奉じたる坊なりしが、元禄年中廢して未だ再建ならず、治暦の頃此坊の主賴算の徒に延救法師と云ものありて、千日の護摩を修し、斷食して化せし由、【元享釋書】に見えたり、
七井。共に靈水なるよし、七井の名は左に載す、其外七木・七谷・七石あり。
阿迦ノ井、獨古ノ井、月ノ井、和田ノ井、丹花ノ井、星ノ井、塔ノ井
七木
立返り柳、五葉ノ松、椎樫、八重櫻、天狗杉、大柏、一もともみ
七谷
菩提澤、芭蕉谷、付法谷、毘廬澤、東谷、北谷、西谷
七石
信濃石、枇杷石、男我石、女我石、瞑官石、童子石、冠石 (新編武蔵風土記稿より)


慈光寺所蔵の文化財

  • 寛元三年銘銅鐘一口(国指定重要文化財)
  • 慈光寺観音堂一棟(ときがわ町指定文化財)
  • 木造千手観音立像(埼玉県指定文化財)
  • 慈光寺山門跡の板碑群
  • 釈迦堂跡
  • 申八梵王
  • 慈光寺経装飾法華経提婆達多品(国宝)

寛元三年銘銅鐘一口

この鐘は、鎌倉時代の寛元三年(一二四五)五月十八日に栄朝が願主となって東国の名工「物部重光」が鋳造し、慈光寺に奉納した銅製の梵鐘です。
鐘の表面(池の間)には陽鋳による銘文が次のようにあります。
池の間第一区銘文
「奉治鋳 六尺椎鐘一口
天台別院慈光寺
大勧進遍照金剛深慶
善知識入唐沙門妙空
大工物部重光
寛元三年乙巳五月十八日辛亥
願主権律師法端上人位栄朝」
池の間第四区銘文
「銅一千弐百斤」
この銘文によると、鎌倉時代に隆盛を極めていた慈光寺が「天台別院」であったこと。後に鎌倉大仏鎌倉建長寺の梵鐘(国宝)の製作で知られた「物部重光」が鋳造したこと。臨済禅を日本に伝えた栄西の弟子で、霊山院や群馬県尾島町世良田の長楽寺を開山した「栄朝」が願主として奉納したことがわかります。また、「銅一千弐百斤」(約七ニ〇キログラム)とあり、原料の使用量がわかります。
この鐘は総高一五〇センチ、口径八八センチで、重量は七〇九キログラムあります。年代のわかる梵鐘では埼玉県内最古であり、鎌倉時代から南北朝時代にかけて関東で活躍した物部姓鋳物師の研究や慈光寺の繁栄を物語る貴重な文化財であります。
なお、この鐘楼は昭和六十年十一月二十六日の火災により釈迦堂や蔵王堂とともに焼失しましたが、寺の復興を願う関係者の浄財により平成二年に再建しました。(都幾川村教育委員会掲示より)

慈光寺観音堂一棟

坂東三十三観音霊場第九番札所都幾山慈光寺観音堂の本尊は木造千手観音立像です。寺伝によれば、天武天皇二年(六七三)に僧慈訓により創建されたといわれます。
現在の観音堂は、享和三年(一八〇三)に九十七世義然が再建したものですが、歳月の中で老朽化は進み将来への継承が心配されていました。そのため修復事業に着手し、村内外からの寄付金、県、村などの補助金と慈光寺により平成五年度から四か年をかけ、本尊の解体修理や萱葺きから銅板葺きへの改修、堂内外の修復と周辺整備を行いました。
観音堂は、入母屋造・銅板葺きの屋根、軒は二重繁垂木とし、本尊を安置する内陣の柱は円柱で三間(約五・四メートル)四面です。前方に十二尺三寸(約三・七メートル)出して礼拝の間(外陣)を設け、その前方には一間の軒唐破風付きの向拝を出しています。外陣は吹き放しで、履物のまま昇殿できる様式は札所建築の特徴でもあります。さらに細部を見ると、柱ごとに彫刻木鼻をつけ、虹梁に細かい文様の地彫または彫刻を施し、その上は彫刻欄間で飾っています。内陣は格天井とし紋尽くしの文様を画き、来迎柱には極彩色が施されています。なお、外陣に千手観音の眷属である風神・雷神をはじめ二十八部衆の欄間彫刻があることは特徴でもあります。
本尊千手観音立像は秘仏ですが、毎年四月第二日曜日と十七日に厨子が開かれ拝観することができます。この御開帳日には多くの信者が登山し、盛大に護摩法要が行われ賑わいます。また季節を通じ全国から多くの巡礼者の参詣が絶えません。
堂内には廃絶した山内諸堂から木造十一面観音立像・木造毘沙門天立像が合祀され、外陣には賓頭盧尊者坐像、その天井には伝説の「夜荒らしの名馬」が安置されています。(都幾川村教育委員会掲示より)

慈光寺山門跡の板碑群

慈光寺山門跡に立つ9基の板碑は、鎌倉時代から室町時代にかけて造られた供養塔です。表面の大きな梵字は本尊を表し、仏像彫刻と同じように蓮座の上に刻まれています。蓮座の下には年号や願文など造立の目的が刻まれています。
個々の板碑の造立目的をみると、摩滅の進んだ十三仏種子板碑は判読できませんが、1番大きい貞治4年銘板碑は、慶秀・頼承・慶救の3名が、寺ゆかりの頼憲・専信・頼慶など14名の僧侶の霊を供養するために造立したことがわかります。また、元享4年銘板碑は朋全という僧侶が自らの死後の往生を願う逆修供養のために造立したことがわかります。これと同様に逆修供養のために造立した板碑が5基あります。
この場所は大型板碑が群立する景観として知られていますが、明治時代の初期に山中の僧坊跡から移設したものと考えられています。(境内掲示より)

釈迦堂跡

昭和六十年十一月二十六日に焼失した釈迦堂は、元禄八年(一六九五)に奥州津軽の行者、釈見性が諸国を権化して回り、喜捨された浄財で再建したものである。近年の調査で鰐口に「元禄八年当院四十世学頭翁鎮釈見性法印」とあり、当寺八十四世翁鎮の代に、釈見性の勧進により建立されたことを確認することができた。
間口八間(十四・八メートル)奥行七・五間(十三・八八メートル)さらに五尺(一・六五メートル)の外縁をもつ大講堂の内陣には、大講堂にふさわしく高さ二・二六メートルの巨大な釈迦如来坐像が安置されていた。厨子の丸柱に金箔が残っていたことから往時は極彩色であったことがうかがえる。
「慈光寺実録」によると当山には学徒と行徒の二派があり、一夏九十日間行徒は回峰修行し、学徒はこの講堂に閉じこもり論壇決択勤行を行った。寛元の鐘を鳴らしこの銅に全山の僧が集まり内陣は七十五坊の住職、中外陣には修行僧が坐して勤行したと伝えられている。外陣の左右に安置されていた仁王像は、廃仏毀釈により明治末期まで山門にあったがここに移転奉祀されたものである。高さ三・五メートルの巨像で「慈光の仁王様」と呼ばれ地元人々から親しまれ「仁王奇行」という伝説も残されている。
なお、釈迦堂と共に釈迦如来坐像、仁王像、蔵王堂及び蔵王権現立像が焼失した。(都幾川村教育委員会掲示より)

申八梵王

猿は、古くから山の神、もしくは山の神の使いとして、信仰されています。山に出入りする人たちが、この石像を「お猿さん」とか、「申八梵王」と呼んで信仰し、親しまれてきました。
これは、地元雲河原村(現在の都幾川村大字雲河原)産出のことど石を彫刻したものである。
横に「天明六年丙午九月十九日」(一七一六)の刻字がある。この年、江戸幕府老中田沼意次が失脚している。天明三年に浅間山噴火があり、天明の大飢饉の最中で、各地に一揆や打ち壊しが続発して、幕藩体制を揺るがしはじめたころである。
山村の無名の石工は、なにかを祈りつつこの軽妙洒脱な御幣を持つお猿さんを彫ったと思われます。(都幾山慈光寺掲示より)

慈光寺経装飾法華経提婆達多品

慈光寺を創建された道忠禅師は、奈良の都で、唐より波濤を越えて来朝された鑑真和上に、佛教を学ばれ、持戒第一の弟子といわれました。生まれ故郷の武蔵国に帰り、ここ都幾山を根拠に上野(群馬)に浄法寺(緑野寺)を建立し、下野(栃木)の大慈寺を復興して関東一円に佛教を広めました。これにより慈光寺は、平安、鎌倉、室町時代と東国佛教の大中心として栄華隆盛を極め、最盛期には寺坊七十五を数えるほどでした。
諸説伝承によると、この女人堂も平安初期において、女人禁制のため、慈光坂途中に建立されていました。女人信仰の御堂として世々、増改築や移設もされ、この地元住民の遠き親達の誠実な祈りと尊き志により護られ維持されてきました。
このたび山頂の慈光寺に伝来する国宝「慈光寺経」の内、金泥文字の剥落はあるもののほぼ完全な姿で伝えられていた「経装飾法華経提婆達多品第十二」を拡大陶窯焼成して、諸衆の祈念に、とりわけ女性の幸せのために掲立しました。
この「経装飾法華経提婆達多品」の本文には、サーガラ竜王の娘が「解悟」に達したことに、釈迦の高弟サーリプトラ(舎利弗)が疑義をはさむが、彼女は、これを論破して、衆生に法を説き、「解悟」をえさせて信受させてゆく物語がある。この故に、女人成佛の経巻として、古来よりあまた女人の信仰篤く、はからずもこの女人堂にもっともふさわしい機縁に恵まれたことになる。
本経の結縁者は、文永七年(一二七〇)の「一品経書写次第」に吉祥御前と記されている。
見返絵は、金箔、砂子を霞濃淡に横断させた上に、墨絵による松、柳、もみじを描き、下方に芦、おみなえしと岩を配している。この絵の中に、「法華経序品」の『或有諸比丘、精進持浄戒、猶加護明珠』の文字が芦手絵風に見え隠れする。
本文は金泥の文字で界線は、世にも珍しい截金による三重線である。その下地は金地に金による波寄する洲浜の絵がある金尽くしの豪華な経巻である。王朝文化の衰退しつつある後鳥羽宮廷の作品で陰翳深く高貴な趣をみせている。
南無妙法蓮華経(女人堂境内掲示より)

慈光寺の周辺図