圓城寺。青山城主青木左衛門佐重成夫妻が開基
圓城寺の概要
曹洞宗寺院の圓城寺は、北青山と号します。圓城寺は、治承4年(1180) の宇治川の戦で敗れた青木氏房の子が出家し創建したと伝えられます。その後青山城主青木左衛門佐重成夫妻(円阿沙弥・正中2年1325年没、道阿比丘尼・貞和2年1346年没)を開基として、日栖周公(延文5年1360年没)が龍穏寺の渕碧参宅大和尚を招請して曹洞宗寺院として開山しています。江戸期には幕府より寺領7石の御朱印状を慶安2年(1649)に受領しています。
山号 | 北青山 |
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院号 | - |
寺号 | 圓城寺 |
本尊 | 釋迦牟尼佛像 |
住所 | 比企郡小川町青山654 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
圓城寺の縁起
圓城寺は、治承4年(1180) の宇治川の戦で敗れた青木氏房の子が出家し創建したと伝えられます。その後青山城主青木左衛門佐重成夫妻(円阿沙弥・正中2年1325年没、道阿比丘尼・貞和2年1346年没)を開基として、日栖周公(延文5年1360年没)が龍穏寺の渕碧参宅大和尚を招請して曹洞宗寺院として開山しています。江戸期には幕府より寺領7石の御朱印状を慶安2年(1649)に受領、元禄年間には水害により一時神名沢に仮移転していた時期もあったといいます。
境内掲示による圓城寺の縁起
円城寺は、曹洞宗に属し開山した日栖周公は延文五年(一三六〇)に没している。
本堂西側の墓地の中には、二基の優れた二連板碑がある。円城寺開基の円阿沙弥(一三二五没)道阿比丘尼(一三四六没)の追善のためのものと伝えられている。
二連の板碑は、二人の作善、追福のため建てられたと考えられている。
円城寺の本堂は、明治十四年(一八八一)の大火で焼けたため、西光寺の仏堂を移築し改造したものである。
本堂内には、嘉暦三年(一三二八)に作られた風化の少ない薬師図像の優れた板石塔婆がある。(埼玉県・小川町掲示より)
新編武蔵風土記稿による圓城寺の縁起
(青山村)
圓城寺
同宗、入間郡越生龍穏寺末、北青山と號す、寺領七石の御朱印は慶安二年附せらると云、開山日栖周公延文五年化す、開基は圓阿沙彌、道阿比丘尼の二人也と云、此二人は夫婦の法謚なるにや、圓阿は正中二年閏正月廿二日卒し、道阿は貞和二年九月十六日卒し、共に當山内に葬すと云、
愛宕社
淺間社(新編武蔵風土記稿より)
「小川町の歴史別編民俗編」による圓城寺の縁起
圓城寺(青山六五四)
円城寺は、北青山と号し、曹洞宗に属する寺院である。江戸時代信には、入間郡越生(現越生町)龍穏寺の末であった。本尊は釈迦牟尼仏である。江戸時代には水害により、元禄のころ一時地内の神名沢に移ったが、その後旧地に復したという。また、明治十二年には小川の大火で類焼したが、小川町の万日堂を移築して復旧された。
円城寺は、青山の領主で治承四年(一一八〇) の宇治川の戦で平家方に加わって敗れた青木氏房の子が鎌倉初期に出家し、開いた寺に始まるとされる。その後、青山城主の青木左衛門佐重成が開基となり、当時の住僧日栖関公が、越生町龍穏寺の渕碧参宅大和尚を招請して開山とし、この時天台宗から曹洞宗に改めた。なお、日栖関公は二世となり、延文五年(一三六〇)に没している。
一方、開基の青木左衛門佐重成は、晩年には出家して円阿沙弥と号し、妻は道阿比正尼と号した。円阿は正中二年(一三二五)閏正月二十二日、道阿は貞和二年(一三四六)九月十六日に卒し、円城寺の境内にはその供養塔(二連の板石塔婆)がある。また、慶安二年(一六四九) には、将軍家から寺領七石の御朱印を賜った。(「小川町の歴史別編民俗編」より)
圓城寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「小川町の歴史別編民俗編」