西光寺。猿尾氏が仁治3年創建、二連板石塔婆
西光寺の概要
曹洞宗寺院の西光寺は、瑞龍山と号します。西光寺は、西光院殿前黄門瑞龍浄喜大居士(天文2年1533年没)が開基となり天文2年(1533)に創建、その後宗宝真起が開山、慶安2年(1649)には江戸幕府より寺領10石の御朱印状を受領していました。
山号 | 瑞龍山 |
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院号 | - |
寺号 | 西光寺 |
本尊 | 釋迦牟尼佛像 |
住所 | 比企郡小川町小川1277 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
西光寺の縁起
西光寺は、西光院殿前黄門瑞龍浄喜大居士(天文2年1533年没)が開基となり天文2年(1533)に創建、その後宗宝真起が開山、慶安2年(1649)には江戸幕府より寺領10石の御朱印状を受領していました。本堂内の奪衣婆像は、「しょうづかのお婆さん」と称されて産婦の祈願として、飛び地境内の龍谷薬師堂は眼病の御利益として信仰を集めているそうです。
境内掲示による西光寺の縁起
西光寺は、曹洞宗に属し本尊は釋迦如来である。
開山は宗室真超、開基は瑞竜浄喜であり、室町時代の後期に、開創されたといわれている。
慶安二年(一六四九)に十石の御朱印を受けているが、寺にその申請状の控が残されており、檀家の寄進した土地が朱印地として公認される経過が知られる。
本堂内に祀ってある閻魔様の前にある奪衣婆の像は、「しょうずかのお婆さん」と呼ばれ真綿を一かせ納めて子育ての祈願をする風習があった。
本堂東側の庭園は、裏山から湧き出す水を利用した庭で、応安元年(一三六八)に作られたといわれる弥陀三尊の二連板碑がある。なおこの板碑は、龍谷薬師堂の墓地にあったものを移したものである。(埼玉県・小川町掲示より)
新編武蔵風土記稿による西光寺の縁起
(小川村)
西光寺
曹洞宗、郡中遠山村遠山寺末、瑞龍山と號す、開山眞起慶長十一年九月五日化す、御朱印寺領十石は慶安二年賜ふ所と云、
八幡社
鐘。寛文九年鑄造の鐘なり、(新編武蔵風土記稿より)
「小川町の歴史別編民俗編」による西光寺の縁起
西光寺(小川一二七七)
「大寺」の通称で知られる西光寺は、瑞龍山と号し、曹洞宗に属する寺院である。江戸時代には、比企郡遠山村(現嵐山町)遠山寺の末であった。本尊は、元来は阿弥陀如来であったが、四世の代の元禄六年(一六九三)に寺を改築した時に釈迦牟尼仏に変更されたという。江戸時代の慶長二年(一五九七)には将軍家から寺領一〇石の朱印状を賜っている。
寺の草創は天文二年(一五三三)で、同年に没した西光院殿前黄門瑞龍浄喜大居士(伝未詳)の名にちなんで山号寺号としたものであろうといわれている。開山は宗宝真起で、寺伝では慶長十九年(一六一四)寂とされているが、『新編武蔵風土記稿』は「開山真起、慶長十一年(一六〇六)九月五日化す」と記している。
なお、西光寺持ちの堂に、境内外の龍谷の薬師堂と千日堂がある。
本堂の一隅には閻魔像と奪衣婆の像が祀ってある。檀徒は奪衣婆を「しょうづかのお婆さん」と呼び、昭和二十年代まではこの像に真綿を供えて産婦の血が止まるように願ったものであった。このほか、龍谷の薬師堂は眼病に御利益があるとして信仰されている。(「小川町の歴史別編民俗編」より)
西光寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「小川町の歴史別編民俗編」