高福寺。小久保勘右衛門重信が開基
高福寺の概要
臨済宗妙心寺派寺院の高福寺は、士峯山と号します。高福寺は、当初慈光寺の経蔵だったものの、松山城主上田能登守朝実の慈光寺焼き討ちに際して、明応7年(1498)経蔵も焼失、その後、江戸時代に入り小久保勘右衛門重信が開基となり、霊山院二十三世天英宗信和尚が寛永2年(1625)に開山したといいます。
山号 | 士峯山 |
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院号 | - |
寺号 | 高福寺 |
本尊 | 薬師如来像 |
住所 | 比企郡小川町上古寺872 |
宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
高福寺の縁起
高福寺は、当初慈光寺の経蔵だったものの、松山城主上田能登守朝実の慈光寺焼き討ちに際して、明応7年(1498)経蔵も焼失、その後、江戸時代に入り小久保勘右衛門重信が開基となり、霊山院二十三世天英宗信和尚が寛永2年(1625)に開山したといいます。
新編武蔵風土記稿による高福寺の縁起
(上古寺村)
高福寺
禅宗臨済派、平村靈山院の末、侍峯山と稱す、開山天英宗信寛永七年八月廿三日寂す、本尊彌陀を置り、(新編武蔵風土記稿より)
「小川町の歴史別編民俗編」による高福寺の縁起
高福寺(上古寺八七二)
高福寺は、侍峯山と号し、臨済宗妙心寺派に属する寺院である。江戸時代は、平村(現都幾川村)霊山院の末であった。本尊は、阿弥陀如来である。
寺伝によれば、高福寺は、元来は慈光寺所有の経蔵であったが、明応七年(一四九八)十一月二十五日に松山城主上田能登守朝実が慈光寺の焼き討ちを行った際、この経蔵も兵火によって焼失し、修繕等も行き届かぬまま退転に及んだという。降って寛永二年(一六二五) 二月、当地の小久保勘右衛門重信が、霊山院二十三世の天英宗信和尚を開山として請招し、再興を果たした。この天英宗信和尚は、寛永七年(一六三〇)八月二十三日に没している。(「小川町の歴史別編民俗編」より)
高福寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「小川町の歴史別編民俗編」