栃本観音堂と不動堂。比企郡小川町大塚にある寺院

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栃本観音堂と不動堂。行基菩薩草創の伝承を持つ観音堂

栃本観音堂と不動堂の概要

寺院の栃本観音堂と不動堂は、小川宿栃本と呼ばれていた当地にある堂庵です。栃本観音堂は、行基菩薩が秩父に向かう途次、観音像を彫刻して創祀したと伝えられ、坂上田村麻呂も戦勝祈願、戦国時代に焼失したものの、徳川家康の命により再建したと伝えられます。一方不動堂は、成田不動尊を尊崇する立身講が、慶応3年(1867)に不動尊を勧請、信仰する者が多く、明治時代に再建する際に不動堂が境内中央に置かれ、観音堂は脇に置かれるようになりなったといいます。

栃本観音堂と不動堂本堂
栃本観音堂と不動堂の概要
山号 -
院号 -
寺号 -
本尊 馬頭観音像
住所 比企郡小川町大塚
宗派 -
葬儀・墓地 -
備考 -



栃本観音堂と不動堂の縁起

栃本観音堂は、行基菩薩が秩父に向かう途次、観音像を彫刻して創祀したと伝えられ、坂上田村麻呂も戦勝祈願、戦国時代に焼失したものの、徳川家康の命により再建したと伝えられます。一方不動堂は、成田不動尊を尊崇する立身講が、慶応3年(1867)に不動尊を勧請、信仰する者が多く、明治時代に再建する際に不動堂が境内中央に置かれ、観音堂は脇に置かれるようになりなったといいます。

境内掲示による栃本観音堂と不動堂の縁起

栃本観音堂(不動様)
栃本観音堂は、奈良時代初期に、行基菩薩が秩父に向かう途中、観音様を刻み小庵を安置したことに始まると伝えられている。栃本とは、観音堂の南に接した地域一帯の地名である。
その後、平安時代に入り、坂上田村麻呂が蝦夷地平定に向かう途中堂宇を修復し、江戸時代には、徳川家康の慈光寺参詣に際して堂宇が再建されたと伝えられているが、元禄年間(一六八八~一七〇四)落雷により観音堂が焼失した。
現在の建物は、明治時代の建築であるが、成田不動尊を勧請して以来、一般的には「不動様」と呼ばれ、近在の人達に親しまれている。(埼玉県掲示より)

「小川町の歴史別編民俗編」による栃本観音堂と不動堂の縁起

【栃本観音堂・不動尊(大塚)】
大塚の緑町は、古くは小川宿栃本といい、その地内に祀られている観音堂は、正徳二年(一七一二)に記された縁起によれば、奈良時代に行基が秩父に向かう途中でこの地に立ち寄って観音像を刻み、小庵に安置したことに始まるという。その後、平安時代には坂上田村麻呂が戦勝を祈願し、承和年間(八三四-四八)には吉志福正が堂を修復したとされる。鎌倉時代には地元の豪族の猿尾氏や斎藤氏に庇護されて栄えたが、戦国時代に大梅寺と同様に焼き討ちにあって焼失したものの、江戸時代に入ると慈光寺に詣でる途中にこの地に立ち寄った徳川家康の命によって再建されたと伝える。しかし、元禄年間の初め、雷火によって再度焼失し、その後再建されたものが現在の堂である。
さらに、慶応三年(一八六七)になると、観音堂の近くに地元の成田不動尊の講中である立身講の人々が千葉県の成田山から不動尊を勧請して祀るようになった。これが「緑町成田山不動尊」の始まりで、その後年を追うごとにこの不動尊の信仰が盛んになり、節分には町内の名士を年男に招いて盛大に豆撒きが行われるようになった。また、大正の初期には十二月六日に酉の市も立つようになった。こうした経緯によって、現在のように境内の中央の堂には不動尊が祀られるようになり、観音像は脇の小堂に記られるようになった。(「小川町の歴史別編民俗編」より)


栃本観音堂と不動堂の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「小川町の歴史別編民俗編」