興襌寺。入間郡越生町西和田にある真言宗智山派寺院
興襌寺の概要
真言宗智山派寺院の興襌寺は、石樹山常住院と号します。興襌寺の創建年代等は不詳ながら、建武改元(1334)銘の板碑が残されており、榮仁(慶安2年1649寂)が開山したといいます。慶安2年(1649)には江戸幕府より釈迦堂領として5石の御朱印状を拝領しています。武州八十八所霊場11番です。
山号 | 石樹山 |
---|---|
院号 | 常住院 |
寺号 | 興襌寺 |
本尊 | 不動明王像 |
住所 | 入間郡越生町西和田849 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
興襌寺の縁起
興襌寺の創建年代等は不詳ながら、建武改元(1334)銘の板碑が残されており、榮仁(慶安2年1649寂)が開山したといいます。慶安2年(1649)には江戸幕府より釈迦堂領として5石の御朱印状を拝領しています。
新編武蔵風土記稿による興襌寺の縁起
(和田村)興禅寺
慶安二年釋迦堂領として、五石の御朱印を賜はれり、新義の眞言宗、今市村法恩寺末、石植山常住院と號せり、開山の僧を榮龍と云、應永三十年の示寂なり、本尊不動を安ず、
釋迦堂。堂領の御朱印を賜るときは、此釋迦元の本尊なりしにや、とにかく由緒ある像なるべし、堂の傍に正安二年の碑たてり、(新編武蔵風土記稿より)
興襌寺所蔵の文化財
- 興禅寺の板碑
興禅寺の板碑
三基の板碑のうち、中央の金剛界大日如来の種子「バン」が彫られた板碑には「建武改元甲戌七月十五日」の銘がある。鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇が実権を掌握した「建武の新政(中興)」の年の造立である。
西暦一三三四年一月二十九日に都で出された「改元」の勅旨が、武蔵国の板碑に刻まれている唯一の例で、新政権の徳政への期待が表徴されたものと考えられている。
板碑は、鎌倉時代から室町時代にかけて墓塔や供養塔として建てられた石塔で、板石塔婆、または、秩父産の緑泥片岩を石材にしていることから、青石塔婆とも呼ばれている。
埼玉県内で二万基以上、越生町内では五百基ほどが確認されており、紙に書き記された文書や記録が乏しい東国の中世史を解明する上で、不可欠な存在となっている。(越生町教育委員会掲示より)
興襌寺の周辺図