樋詰氷川神社。桶川市川田谷の神社

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樋詰氷川神社。樋詰の道しるべ

樋詰氷川神社の概要

樋詰氷川神社は、桶川市川田谷にある神社です。樋詰氷川神社の創建年代などは不詳ながら、慶安年間(1648-1652)から元禄年間(1688-1704)までの間に川田谷村から分村して樋詰村が成立した時期に、村鎮守として創祀したのではないかといい、明治6年村社に列格したといいます。

樋詰氷川神社
樋詰氷川神社の概要
社号 氷川神社
祭神 素戔嗚尊
相殿 -
境内社 -
祭日 春大祭3月15日、秋大祭10月15日
住所 桶川市川田谷215
備考 -



樋詰氷川神社の由緒

樋詰氷川神社の創建年代などは不詳ながら、慶安年間(1648-1652)から元禄年間(1688-1704)までの間に川田谷村から分村して樋詰村が成立した時期に、村鎮守として創祀したのではないかといい、明治6年村社に列格したといいます。

新編武蔵風土記稿による樋詰氷川神社の由緒

(川田谷村枝郷樋詰村)
氷川社
村の鎮守なり、川田谷村西光寺の持。(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による樋詰氷川神社の由緒

氷川神社<桶川市川田谷二一五(川田谷村字宮前)>
当社が鎮まる樋詰の地は、荒川左岸の低地に位置し、古くから度重なる水害を被ってきた。樋詰は川田谷村の枝郷で、慶安二-三年(一六四九-五〇)の『田園簿』では本村に含まれており、元禄十五年(一七〇二)の『元禄郷帳』では川田谷村枝郷として樋詰村一〇二石余と記される。また、口碑によれば、樋詰の開発当初の村人は長島一家だけであったという。
その創建は川田谷村から分村する過程で祀られたことが推測され、長島一家とのかかわりも考えられる。化政期(一八〇四-三〇)の『風土記稿』川田谷村枝郷樋詰村の項には「氷川社 村の鎮守なり、川田谷村西光寺の持」とあり、当時の家数は三三戸とある。
参道入口の鳥居に掲げる「氷川大明神」の額には、裏に「元文四未(一七三九)天十一月吉旦 武州足立郡石戸領樋詰村氏子中」と刻まれており、当社の最も古い史料となっている。また、本殿に安置する金幣には「奉献心願成就 明和六己年丑(一七六九)二月吉日」「願主伊勢谷丑兵衛」と記されている。
明治六年に当社は村社となり、下って昭和四十二年には社務所兼集会所を改築した。また、往時の別当西光寺は既に廃寺となっており、その跡には墓地が残る。ちなみに、同寺は川田谷村の天台宗泉福寺の塔頭であった。(「埼玉の神社」より)


樋詰氷川神社所蔵の文化財

  • 樋詰の道しるべ(桶川市指定民俗文化財)

樋詰の道しるべ

この道しるべは、高さ40cmほどの小さな道しるべです。明和8年(1771)に建てられ、正面には「あきは道」「大宮道」とあります。「あきは」は火災除け、盗難除けの神様として信仰を集めた指扇村(現さいたま市)の秋葉神社で、「大宮」は採炭しの武蔵一宮氷川神社です。正面向かって右側面には「かうのす道」、左側面には「太郎エ門舟渡」と刻まれています。「太郎エ門舟渡」は、現在の県道12号川越栗橋線の太郎右衛門橋付近にあった荒川の渡し場のことです。
樋詰氷川神社の前の道は、古くからの主要道路であったと考えられ、沿道には城館跡や寺社などが多く残されています。江戸時代には中山道の脇道として、また、荒川の舟運や渡河のための主要交通路として、多くの人の往来があったと思われます。この道しるべも、通行する人々の案内役として重要な役割を果たしていたことがうかがえます。(桶川市教育委員会掲示より)

樋詰氷川神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)