川田谷諏訪神社。旧石戸領の総鎮守
川田谷諏訪神社の概要
川田谷諏訪神社は、桶川市川田谷にある神社です。川田谷諏訪神社の創建年代などは不詳ながら、天正19年(1591)には徳川家康より社領3石の御朱印状を拝領、石戸領の総鎮守だったといいます。明治6年村社に列格、明治40年雷電社を合祀、明治42年神饌幣帛料供進神社に指定されています。
社号 | 諏訪神社 |
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祭神 | 建御名方命 |
相殿 | - |
境内社 | 稲荷社、白幡社、稲荷社、厳島社、三峯社 |
祭日 | 大祭8月26・27日 |
住所 | 桶川市川田谷6710 |
備考 | - |
川田谷諏訪神社の由緒
川田谷諏訪神社の創建年代などは不詳ながら、天正19年(1591)には徳川家康より社領3石の御朱印状を拝領、石戸領(滝馬室・原馬室・原馬室枝郷小松原・上日出谷・下日出谷・川田谷・川田谷枝郷樋詰・菅原新田・領家・藤波・藤波村枝郷古泉・中分・畔吉・小敷田・小林・石戸宿・下石戸上・下石戸下・高尾・荒井・荒井村枝郷北袋)の総鎮守だったといいます。明治6年村社に列格、明治40年雷電社を合祀、明治42年神饌幣帛料供進神社に指定されています。
新編武蔵風土記稿による川田谷諏訪神社の由緒
(川田谷村)
諏訪社
社領三石天正十九年賜ひし御朱印の文に足立郡河田谷郷の内とあり、石戸領の總鎮守なり。
末社。稲荷社。(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による川田谷諏訪神社の由緒
諏訪神社<桶川市川田谷六七一〇(川田谷村字諏訪南)>
『風土記稿』川田谷村の項に、「諏訪社 社頭三石天正十九年賜ひし御朱印の文に足立郡河田谷郷の内とあり、石戸領の総鎮守なり」と載り、境内に建つ文化十三年(一八一六)の敷石供養塔にも「石戸領二十一ケ村氏子中」と刻まれているように、当社は古来、石戸領二十一か村の総鎮守として崇敬されてきた。この「石戸領二十一か村」とは、滝馬室・原馬室・原馬室枝郷小松原・上日出谷・下日出谷・川田谷・川田谷枝郷樋詰・菅原新田・領家・藤波・藤波村枝郷古泉・中分・畔吉・小敷田・小林・石戸宿・下石戸上・下石戸下・高尾・荒井・荒井村枝郷北袋の諸村である。
鳥居に掛かる扁額の銘文によると、当社の社殿は天保八年(一八三七)七月に再建されたが、同十五年正月に火災に遭って全焼したため、氏子の各村相計り、社殿を再建した。『明細帳』によれば、明治六年に村社となった。祭神は建御名方命である。
また、江戸時代には当社の西方五〇〇メートルほどの所にある天台宗の普門寺(山号は諏訪山)が別当であったが、神仏分離後は、地元の高柳家が神職となり、(中略)奉仕している。ちなみに、高柳家の祖は、北条家の家臣であったといい、兄弟でこの地に来て土着し、兄が本家、弟が分家(現社家)となったとの伝えがあり、代々当社への崇敬の念が厚い家柄であった。(「埼玉の神社」より)
川田谷諏訪神社の由緒
- 諏訪神社本殿
諏訪神社本殿
諏訪神社は、江戸時代には譜代大名牧野家の所領であった旧石戸領(現在の上尾市北西部から鴻巣市南西部にかけての一帯)五千石の総鎮守として信仰される神社でした。天正19年(1591)には社領として三石拝領の朱印状を受けた記録が「新編武蔵風土記稿」に見ることができます。これにより諏訪神社は天正19年以前の創建であることがわかります。
諏訪神社本殿は、一間社流造でという造り方です。身舎と呼ばれる社殿の主体部分の長さは一間(6尺=約1.82m)で、屋根は杮葺と呼ばれる薄い板を葺いたものです。身舎は、複雑な組物と彫刻で隙間なく飾られ、見る人の目を楽しませてくれます。
造られた年代については、棟札が発見されていないため確定はできません。しかし、社殿細部に施された建築様式や発見された関連資料などから、19世紀中頃の建築であると推測されます。また、大工は地元の棟梁・新井家が深く係わっていると考えられます。(桶川市教育委員会掲示より)
川田谷諏訪神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)