浄念寺。桶川市南にある浄土宗寺院

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浄念寺。桶川不動尊、足立新秩父三十四ヶ所

浄念寺の概要

浄土宗寺院の浄念寺は、清水山法恩院と号します。浄念寺は、室町時代初期(1360年頃)に朗海上人が修行のための草庵を創建、小金東漸寺の團誉桂全善壽上人(文禄4年1596年寂)が開山したといいます。江戸時代初期には、桶川宿の領主西尾隠岐守吉次が、地蔵菩薩像・薬師如来像を奉納、明治維新後に、南蔵院より移設された不動尊像は、桶川不動尊として信仰を集めているといいます。足立新秩父三十四ヶ所9番です。

浄念寺
浄念寺の概要
山号 清水山
院号 法恩院
寺号 浄念寺
住所 桶川市南1-6-11
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



浄念寺の縁起

浄念寺は、室町時代初期(1360年頃)に朗海上人が修行のための草庵を創建、小金東漸寺の團誉桂全善壽上人(文禄4年1596年寂)が開山したといいます。江戸時代初期には、桶川宿の領主西尾隠岐守吉次が、地蔵菩薩像・薬師如来像を奉納、明治維新に際しては、廃寺となった南蔵院の不動尊像を当寺へ移設、桶川不動尊として信仰を集めているといいます。

新編武蔵風土記稿による浄念寺の縁起

(桶川宿)浄念寺
清水山法恩院と號す、浄土宗、鴻巣宿勝願寺末、本尊は阿彌陀を安ず、外に地蔵・薬師を安ず、地蔵は弘法大師の作、薬師は聖徳太子の作にして、西尾隠岐守吉次納めしと云、正蓮社團譽善壽當寺を草創し、後京都黒谷金戒光明寺へ移轉し、二十一世となり、文禄四年十月十九日示寂す、往古の開基を朗海と云、貞治七年正月朔日寂せり、則境内に其人の古碑あり、因て思ふに朗海の開基せしは、纔の庵室なりしを、後團譽上人一寺に取建しにより、是を開山と云なるべし、委しき寺傳もありしが、明暦二年十月十五日回禄の災にかかり、舊記等もことごとく烏有となり、夫より姑く荒廢せしが、第十世鸞譽力を盡して取建しゆへ、これを中興開山とす、初は下總葛飾郡小金東漸寺の末なりしが、此僧勝願寺の弟子にて當寺へ移轉せしにより、今の末となれりといへり。
仁王門。樓門なり、樓下に仁王を安じ、上に鐘をかく、元禄十四年の銘文あり、考證に益なければ載せず。
天神社。觀音堂。(新編武蔵風土記稿より)

境内掲示による浄念寺の縁起

浄念寺の歴史
浄念寺は正式名称を清水山報恩院浄念寺と申します。
室町時代後期の天文十五年(一五四六)年、下総国小金(現在の千葉県松戸市)東漸寺の團誉桂全善壽上人が浄念寺を開創いたしました。江戸時代後期にまとめられた『新編武蔵風土記稿』に、「往古の開基を朗海と云、貞治七年正月朔日寂せり則境内に其の人の古碑あり、因りて思うに朗海の開基せしと云ふなるべし」と記されているように、室町時代初期(一三六〇年頃)に朗海上人が桶川のこの地に建てた修行のための庵をもとに、戦国時代に團誉桂全善壽上人が寺院として整えたのは浄念寺の始まりであります。
浄念寺は開創された頃より、桶川宿と深い関係があったと考えられます。江戸時代初頭には、桶川宿を治めた西尾隠岐守吉次によって、地蔵菩薩像(本堂内に現存)・薬師如来像(薬師如来が納められていた石塔のみ現存)が奉納されたことからも、このことが伺えます。
阿弥陀さまにたいする信仰が盛んであっただけでなく、「足立新秩父観音霊場」の札所として、観音さまへの信仰も篤いものでありました。また明治以降は、桶川不動尊の御所としての信仰も集めております。また、昔の人たちの信仰の様子は、現在でも境内地に残っている様々な石塔、仏像からうかがい知ることができます。
なお現在の本堂は平成十六年に新築されました。(境内掲示より)


浄念寺所蔵の文化財

  • 仁王門(山門)・梵鐘・仁王像
  • 板石塔婆
  • 徳本名号碑
  • 絵師狩野法眼伊白の碑
  • 不動堂

仁王門(山門)・梵鐘・仁王像

浄念寺のシンボルというべきこの朱塗りの仁王門は、『新編武蔵風土記稿』に「仁王門ハ楼門ニ仁王ヲ安シ、上ニ鐘ヲ懸ク、元禄十四年ノ銘文アリ」と記されてあるように、元禄十四(一七〇一)年に再建されたものであります。
この仁王門の上には梵鐘が懸かっています。浄念寺のかっての梵鐘は寛保元(一七四一)年に鋳造されたもので、浄念寺のご詠歌に「浄念寺 鐘の響きや法の音 子安の誓い深き桶川」と詠われているように、その美しい音色は、人々に時を知らせるために桶川宿の隅々にまで鳴り響いたといわれています。残念ながら、この梵鐘は第二次対戦の際、求めに応じて供出され現存しておりません。現在、仁王門に懸っている梵鐘は、昭和四十年に鋳造されたものであります。
仁王門の楼下にいらっしゃるのが、二体の仁王像であります。明和五(一七六八)年に開眼されました。口を開けているほうが阿形像、口を閉じているほうが吽形像といい外から侵入しようとする法敵から仏法を守護しております。(境内掲示より)

板石塔婆

板石塔婆とは、主に緑泥片石を利用した石製の塔婆で、鎌倉時代から室町時代初頭にかけて死者の追善供養や自らの極楽往生を願って造立されたものであります。
浄念寺の板石塔婆は、最も古いものは正和四(一三一五)年、最も新しいものが天文十九(一五九〇)年のものであります。その中の一つが、浄念寺の礎となった庵を作り修行に励んだ、朗海上人を供養するための板石塔婆であります。(中央、一番大きな板石塔婆)朗海上人の板石塔婆には次のように刻まれています。
臨終唱曰 臨終至時 懺悔念仏
権律師 貞治七年 戌申 正月一日
朗海 業障便転 則得往生(境内掲示より)

徳本名号碑

徳本上人(一七五八~一八一八)は、江戸時代中期に諸国を遊行して念仏を広めた浄土宗の僧侶であります。大声で念仏を称える「徳本念仏」は江戸で爆発的に流行し、彼は信者の求めに応じて独特な書体の名号を書いて与えました。その名号を石に刻んだ名号碑が各地で主に女性が構成していた念仏講などにより造立されました。浄念寺の徳本名号碑は、文政元(一八一八)年に府川甚右衛門の妻ら四十七人の寄進により造立されたものです。(境内掲示より)

西尾隠岐守吉次ゆかりの供養塔

浄念寺には、江戸時代初期に桶川を治めた西尾隠岐守吉次の二つの守り本尊が寄進されました。その一つが地蔵菩薩像(本堂内に現存)であり、もう一つが薬師如来像であります。この薬師如来像は、度重なる災禍のためか現存しておりませんが、薬師如来が納められていたと考えられる供養塔が残っております。(境内掲示より)

絵師狩野法眼伊白の碑

狩野派の絵師である絵師狩野法眼伊白は、江戸時代の後期である寛政二(一七九〇)年に江戸に生まれました。狩野派の絵を学び「法眼」の位を得て、二十二才の頃に水戸藩の奥絵師山内養春の養子となり水戸藩主の水戸斉昭にも仕えましたが、まもなく旅心が生じ諸国行脚の旅に出ます。行く先々で絵を描く生活を送った後、嘉永年間(一八四八~一八五四)頃に桶川宿に居を定めました。十数年の創作活動をおこない、元治元(一八六四)年五月六日に桶川の地で七十四才の生涯を終えました。
この碑の文は、伊白の死後の慶應元(一八六五)年、比企郡三保谷新堀(現・比企郡川島町)出身の詩人、石黒張斎(綱三)が詠んだもので、伊白の生涯、彼の絵がいかに素晴らしいものであったか、死後浄念寺に埋葬されたことなどが記されております。(境内掲示より)

不動堂

すべての魔や煩悩を祈伏し、衆生を救済するのが不動明王です。
現在浄念寺におまつりしてある不動尊は、もとは南蔵院でまつられていましたが、廃仏毀釈で南蔵院が廃寺となるに伴い、明治二年に浄念寺へと移座いたしました。
この不動尊は元禄(一六八八~一七〇四年)の頃、桶川宿の水谷某の畑の中から掘り出されたと言われており、霊験あらたかゆえ多くの参拝を受けてまいちました。毎月二十八日は「不動尊縁日」で、多くの人がお参りに訪れます。(境内掲示より)

浄念寺の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」