平沢白山神社。比企郡嵐山町平沢の神社

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平沢白山神社。太田資康詩歌会跡

平沢白山神社の概要

平沢白山神社は、比企郡嵐山町平沢にある神社です。平沢白山神社の創建年代等は不詳ながら、文治4年(1188)にはその存在が知られていた平澤寺の鎮守として祀られていたとされます。その後平澤寺は衰え、戦国時代に創建した修験持正院が当寺の別当を勤め、熊野三社・三嶋の三社を合祀して七社権現社と称し、平沢村の鎮守として祀られていました。明治維新後、白山神社と復号しています。室町時代には、上杉定正と対峙していた太田資康は当地に布陣、資康の許を禅僧万里集九が長享2年(1488)に訪問し詩歌会を開催したことから、太田資康詩歌会跡とされ、埼玉県旧跡に指定されています。

平沢白山神社
平沢白山神社の概要
社号 白山神社
祭神 -
相殿 -
境内社 天神社
祭日 春祭り4月3日、秋祭り10月17日
住所 比企郡嵐山町平沢968-2
備考 -



平沢白山神社の由緒

平沢白山神社の創建年代等は不詳ながら、文治4年(1188)にはその存在が知られていた平澤寺の鎮守として祀られていたとされます。その後平澤寺は衰え、戦国時代に創建した修験持正院が当寺の別当を勤め、熊野三社・三嶋の三社を合祀して七社権現社と称し、平沢村の鎮守として祀られていました。明治維新後、白山神社と復号しています。室町時代には、上杉定正と対峙していた太田資康は当地に布陣、資康の許を禅僧万里集九が長享2年(1488)に訪問し詩歌会を開催したことから、太田資康詩歌会跡とされ、埼玉県旧跡に指定されています。

新編武蔵風土記稿による平沢白山神社の由緒

(平澤村)
七社權現社
村の鎮守にて境内にあり、祭神は白山及び熊野三社、三嶋の三社を合殿して、七社と號す、されど古は白山のみの社にや、【梅花無盡蔵】の詩社頭月の自註云、九月廿五太田源六於平澤寺鎮守、白山の廟詩歌會、興敬壘相對、講風雅叶西俗無比様と、その詩に、
一戰乗勝勢尚加、白山古廟澤南涯、皆知次第有神助、九月如春月自花、
依て按るに、古へ平澤寺の鎮守白山は、當社のことにて熊野三嶋を合せ、今七社と號するは、長享より後のこと知べし、(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による平沢白山神社の由緒

白山神社<平沢九六八(平沢字入)>
当地には菅谷・小川・鉢形を経て上野に至る鎌倉街道が通り、中世における交通の要衝であった。地内の平澤寺境内の山上から平安末期の久安四年(一一四八)銘の鋳銅経筒が出土しており、『吾妻鏡』の永治四年(一一八八)七月十三日条には「武蔵国平沢寺院主職事被付僧永寛訖」とあり同寺の創建の古さがうかがわれる。
当社はこの平澤寺の鎮守として創建されたと伝えられている。禅僧万里集九の著した「梅花無尽蔵」(五山文学新書) によれば、長享二年(一四八八)に集九は、上杉定正を討つために当地に布陣していた資康の陣中に三十六日間逗留し、その間に平澤寺の鎮守白山社において資康と詩歌会を催したという。
その後、本山派修験の持正院が地内に移り住み、当社の別当となった。同院の最も古い僧が永禄八年(一五六五)に寂していることからそれ以前には既に別当となっていたものであろう。
『風土記稿』に当社は「七社権現社村の鎮守にて境内にあり、祭神は白山及び熊野三社、三嶋の三社を合祀して、七社と号す、されど古えは白山のみの社にや(以下略)」と記されている。恐らく熊野社は持正院により勧請されたのであろう。明治に入り、社名も白山神社に復し、明治四十三年に現在の高台に移され、四年後に社殿が新築された。本殿北側にある石祠は、往時の社であるといわれている。(「埼玉の神社」より)


平沢白山神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)