平澤寺。比企郡嵐山町平沢にある天台宗寺院
平澤寺の概要
天台宗寺院の平澤寺は、成覺山實相院と号します。平澤寺の創建年代等は不詳ながら、鎌倉時代の史書『吾妻鏡』に「文治四年七月十三日丁未、武蔵國平澤寺院主被付」とあり、文治4年(1188)には、不動明王を本尊とする有力寺院だったと伝えています。永正年間(1504-1521)の史書『東路土産』にはその名が見えるものの、その後廃寺となっていた当寺を、慈光寺住職重永(寛永9年1632年寂)が天正年間(1573-1592)に中興したといいます。旧本尊の不動明王が奉安される不動堂は、覺長(永禄8年1565年寂)が創建したと思われる修験持正院が、明治中期まで別当として管理、慶安2年(1649)には6石5斗の御朱印状を受領していました。当寺所蔵の経筒は、享保年間に長者塚から掘り出されたもので、埼玉県有形文化財に指定されています。
山号 | 成覺山 |
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院号 | 實相院 |
寺号 | 平澤寺 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
住所 | 比企郡嵐山町平沢977 |
宗派 | 天台宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
平澤寺の縁起
平澤寺の創建年代等は不詳ながら、鎌倉時代の史書『吾妻鏡』に「文治四年七月十三日丁未、武蔵國平澤寺院主被付」とあり、文治4年(1188)には、不動明王を本尊とする有力寺院だったと伝えています。永正年間(1504-1521)の史書『東路土産』にはその名が見えるものの、その後廃寺となっていた当寺を、慈光寺住職重永(寛永9年1632年寂)が天正年間(1573-1592)に中興したといいます。旧本尊の不動明王が奉安される不動堂は、覺長(永禄8年1565年寂)が創建したと思われる修験持正院が、明治中期まで別当として管理、慶安2年(1649)には6石5斗の御朱印状を受領していました。
新編武蔵風土記稿による平澤寺の縁起
(平澤村)
平澤寺
天台宗、入間郡仙波中院の門徒、成覺山實相院と號す、相傳ふ往昔は大なる佛刹にして、此地もとより寺領の内なりしと、今村内の不動堂の不動は、古の本尊にて、又白山の社も其頃よりの鎮守なりと云、此の堂舎のことは下に辨ぜり、【東鑑】に文治四年七月十三日丁未、武蔵國平澤寺院主被付、僧求寛訖とあるは、當寺のことなるべし、されど今は開山も傳へず、いつの頃にや、一度廢寺となりしを、郡中平村慈光寺の住職重永と云僧、かゝる名刹の絶たるを歎きて、天正の頃にや中興せしといへり、宗長が【東路土産】に、鉢形を立て須賀谷と云所に至り、小泉掃部介の宿所に逗留し、其ほとりの平澤寺にして連歌あり、此寺の本尊は不動尊、池にふりたる松あるよしのせたり、是によれば永正の頃までは存せし寺にして、廢したるは夫より後のことなるべし、中興開山重永寛永九年十二月廿九日示寂す、本尊は彌陀を安ぜり、
天神社
寺寶
經筒一口。享保の頃なりし境内につゞける地に、土人長者塚といへる古き塚を掘しに、古木の根より出しと云銅にて、尤古色なるものなり、久安は今より六百七十年の餘に及べり、其圖左の如し
敬白 勧進沙門實典
奉施入如法經筒一口
右志者爲自他法界平等利益也
久安四年歳次戊辰二月廿九日
戊當國大主散位午平朝臣茲縄方縁等
藤原守道 藤原助員
安部末恒
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不動堂
堂領六石五斗は、慶安二年先規のごとく、御朱印を賜ふ所なり、不動は傳教大師の作、此像古くは平澤寺の本尊と云へば、當時此地もかの寺の境内なるべし、僧萬里が【梅花無盡蔵】、長享二年八月の條云、十七日入須賀谷之北、平澤山間太田源六資康之軍營、於い明王堂畔二三十騎突出迎余、今亦深泥之中解鞍各拝其面賀、資康無恙、余已暫寓云、
明王堂畔間君軍、雨後深泥似度雲、馬足未臨草吹血、細看要作戦場文、
自註云、六月十八日須賀谷有雨上杉、戰死者七百餘員、馬亦數百疋、是によれば此邊太田資康の軍營ともなりしこと知べし、
七社權現社
(中略、
別當持正院
本山修験、葛飾郡小淵村不動院配下、顯密山不動寺と號す、當院本尊に神變大菩薩を安ず、寺傳に開山は榮源延寶二年五月廿三日示寂と云、されど世代の内に覺長と云る僧ありて、永禄八年寂とあれば、別當となりしも古きことなりければ、榮源は中興開山なるべし、
稲荷社 (新編武蔵風土記稿より)
平澤寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿