根岸吾妻神社。比企郡嵐山町根岸の神社

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根岸吾妻神社。比企郡嵐山町根岸の神社

根岸吾妻神社の概要

根岸吾妻神社は、比企郡嵐山町根岸にある神社です。根岸吾妻神社は、熊谷次郎直実の末裔で、松山城主上田案独斎の麾下だった佐渡俊直が永禄元年(1558)に当地を知行、吾妻山と呼ばれていた当地(現前山)に日本武尊を鎮斎したといいます。江戸時代後期の地誌新編武蔵風土記稿に記載はないものの、明治維新後の社格制定に際し当社を村社とし、根岸で祀っていた神明社を当社に合祀しています。吾妻山の由来について、坂上田村麻呂将軍の妻との離縁(縁切橋)を悲しんだ妻が、吾妻山下の女淵(皿淵)に身投げしたことから、吾妻山と称したと伝えています。

根岸吾妻神社
根岸吾妻神社の概要
社号 吾妻神社
祭神 日本武尊
相殿 -
境内社 -
祭日 例祭4月4日、秋祭り10月20日
住所 比企郡嵐山町根岸205
備考 -



根岸吾妻神社の由緒

根岸吾妻神社は、熊谷次郎直実の末裔で、松山城主上田案独斎の麾下だった佐渡俊直が永禄元年(1558)に当地を知行、吾妻山と呼ばれていた当地(現前山)に日本武尊を鎮斎したといいます。江戸時代後期の地誌新編武蔵風土記稿に記載はないものの、明治維新後の社格制定に際し当社を村社とし、根岸で祀っていた神明社を当社に合祀しています。吾妻山の由来について、坂上田村麻呂将軍の妻との離縁(縁切橋)を悲しんだ妻が、吾妻山下の女淵(皿淵)に身投げしたことから、吾妻山と称したと伝えています。

新編武蔵風土記稿による根岸吾妻神社の由緒

(根岸村)
神明社
村の鎮守なり、大蔵村安養寺持、
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三寶荒神社
同寺の持、(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による根岸吾妻神社の由緒

吾妻神社<嵐山町根岸二〇五(根岸字前山)>
当社は氏子集落南端の前山と呼ばれる山上に鎮座する。参道入口に面して走る小道は観音街道と呼ばれ、岩殿観音へ至る道筋である。『風土記稿』には「或書に熊谷次郎直実が末孫、佐渡守実勝六代の孫佐渡俊直と云人、武蔵国比企郡根岸村に住し」の記事が見える。明治三十二年の「取調上申書」によれば、佐渡俊直の居住は永禄元年(一五五八)のことで、松山城主上田案独斎の麾下で当地と和泉村(現滑川町)を知行すると共に、敬神尊皇の意によって吾妻山(現前山)に日本武尊を鎮斎したという。根岸の鎮守は『風土記稿』には神明社と記されているが、「上申書」によれば、維新政府下における尊皇の機運を高めるために当社を村社にしたという。神明社は、明治四十年に当社に合祀されている。
一方、坂上田村麻呂将軍にちなむ創祀伝承もある。将軍が妻を離縁し、それを悲しんだ妻が前山下の女淵(皿淵)に身投げした。その妻を祀ったのが当社で、自分の妻を祀ったので”吾妻”神社としたという。女淵は、当社への登り口にあり、清水が湧いている。この説話は、近くにある岩殿観音にまつわる田村麻呂将軍来訪伝承に附会して語られているが、当社が本来的には湧水の水神であったことを推測させる。(「埼玉の神社」より)


根岸吾妻神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)