菅谷神社。比企郡嵐山町菅谷の神社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

菅谷神社。菅谷館の守護神山王社

菅谷神社の概要

菅谷神社は、比企郡嵐山町菅谷にある神社です。菅谷神社は、源平合戦で活躍した畠山重忠が、恩賞として領有した菅谷の地に居館を建立(菅谷館跡)、居館の守護神として日吉大社を勧請して山王社と称し建久元年(1190)に創建したといいます。畠山重忠重忠死後、菅谷の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際して日枝神社と改称して明治4年村社に列格、明治四十年四月十七日に字本宿の無格社稲荷神社と字城の無格社天神社の両社を合祀しています。

菅谷神社
菅谷神社の概要
社号 菅谷神社
祭神 大山咋命
相殿 -
境内社 天手長男神社、稲荷神社、津島神社、天神社、秩父神社
祭日 勧学祭4月第1日曜日、天手長男神社祭4月3日、弁財天祭4月初巳の日、津島神社夏祭7月13日に近い土日、例祭10月17日、天手長男神社祭12月3日
住所 比企郡嵐山町菅谷608
備考 -



菅谷神社の由緒

菅谷神社は、源平合戦で活躍した畠山重忠が、恩賞として領有した菅谷の地に居館を建立(菅谷館跡)、居館の守護神として日吉大社を勧請して山王社と称し建久元年(1190)に創建したといいます。畠山重忠重忠死後、菅谷の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際して日枝神社と改称して明治4年村社に列格、明治四十年四月十七日に字本宿の無格社稲荷神社と字城の無格社天神社の両社を合祀しています。

境内掲示による菅谷神社の由緒

由緒
本社大山咋命ハ元日枝神社ナリ是ハ畠山重忠年十七才ニシテ治承四年十月武蔵国長井ノ渡シノ頼朝ノ陣所ニ参シ頼朝公ニ属シテ先鋒ノ将トナリ各地ノ戦争ニ大ニ軍功アツテ此ノ菅谷ノ地ヲ賜リ依テ此ニ新城ヲ築キ居住トナシ武運長久ノ守護神トシテ近江国日吉山ニ鎮座ナス(現今滋賀県滋賀郡坂本村官幣大社日吉神社コノ御分霊ハ日本国中即チ三府弐拾三県ノ内二五百社之アリ其ノ一社ノ内ノ御分社)日吉山山王権現ノ御分霊ヲ畠山重忠請願ニ依リ建久元年九月十九日ニ奉遷勧請ス故ニ日吉山王大権現ト称セシヲ明治四年神社取調ノ節村社ニ列セラレ社号ヲ日枝神社ト改称ス是ヨリ本社境内ニ須賀神社及秩父神社ノ二社アリシヲ以テ左ニ列記ス須佐之男命ハ須賀神社ト称シテ創立不詳ナレドモ本村成立ト同時ニ勧請セシモノト伝フ(境内掲示(境内掲示より)

新編武蔵風土記稿による菅谷神社の由緒

(菅谷村)
山王社
村の鎮守なり、村持、下同じ、
---
稲荷社
天神社(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による菅谷神社の由緒

菅谷神社<嵐山町菅谷六〇八(菅谷字山王回)>
菅谷は、都幾川の左岸に広がる東松山台地に位置し、その地名は山野に広く菅が自生していたことに由来する。この辺りには、古くから豪族が住み、村の開発を行っていたらしく、菅谷の地内にも古墳時代後期に作られた東原・向原・手山・稲荷塚の各古墳群がある。また、現在、埼玉県立歴史資料館や国立婦人教育会館のある場所は、源頼朝の有力な御家人として平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した畠山重忠の居館として知られる菅谷館の跡地である。
男衾郡畠山荘(現大里郡川本町・江南町付近)の開発領主である畠山氏は、桓武平氏村岡良文の流れを読む秩父重綱を祖とし、重綱の孫の重能の時に畠山氏を称した。重忠は、長寛二年(一一六四)に重能の嫡子として生まれ、治承四年(一一八〇)八月に源頼朝が挙兵した際には、大番役のために在京中であった父に代わって弱冠十七歳でその追討に出陣した。しかし、同年十月に頼朝が房総を平定して武蔵に入るとこれに帰服し、木曾義仲の追討、宇治川や一の谷などでの平家との戦、更には奥州征伐にも従って武功を高めた。しかし、頼朝の没後は、武蔵国への進出を図る執権北条氏の策略によって元久二年(一二〇五)に二俣川(現横浜市旭区)で討死した。
菅谷館跡は、この畠山重忠が本拠の畠山(現川本町畠山)から出て居誠を構えた所といわれ、重忠が謀殺された後も畠山氏が居館として用い、その後、長享年間(一四八七-八九)には扇谷上杉氏の臣である太田源六資康の城塞として拡張整備され、小田原北条氏の支配下ではその属将小泉掃部介の持城となった。なお、菅谷館跡は、平地に築かれた平城としては遺構の保存状態が極めて良いため、大正十二年には県指定史跡、昭和四十八年には国指定史跡となり、遺構の保存が進められている。
当社は『風土記稿』菅谷村の項に「山主社村の鎮守なり、村持、下同じ、稲荷社 天神社」と記されているように、本来は山王社もしくは山王宮と呼ばれていた。それが、明治初年に日枝神社と改められ、更に明治四十年四月十七日に字本宿の無格社稲荷神社と字城の無格社天神社の両社を合祀したことにより、村名にちなんで菅谷神社と改称した。稲荷神社は現在町指定文化財となっている稲荷塚古墳の墳丘上に、天神社は菅谷館跡三の郭の土手の上にあったもので、『風土記稿』に当社に続いてその名が見える。なお、稲荷神社には、畠山重忠が城の鬼門除けに祀ったものという由緒がある。
社記によれば、山王社は建久元年(一一九〇)九月十九日に畠山重忠の誓願により、近江国(現滋賀県)坂本村に鎮座する日吉山王権現の分霊を奉遷勧請したもので、本殿の中には、その旨を串に記した幣束が安置されている。創建以降の動向については、資料がなく明らかではないが、菅谷の人々から村の鎮守として大切に祀られてきたものと思われる。
本殿の前には「山王宮」と彫られた古い社号額が掛かっているが、この社号額は、熊谷市原島の福王寺を開基したことで知られる愚禅和尚が文化十年(一八二二)に揮毫したもので、齢八十の翁の書とは思えないほど活力に満ちたものである。この額は、明治四年に村社になった時、額面に「日枝大神」と書かれた板が貼り付けられ、明治四十年に菅谷神社と社号が改められてからは本殿の中に納められていた。それが、平成元年一月に偶然発見され、氏子総代の山崎宗朋・山崎欣治両名の計らいで、先人の文化遺産として大切に引き継ぐようにと再度掲げられることになり、額の由来を記した由緒書も両名によって奉納された。
当社の境内にある秩父神社は、畠山重忠公を祭神としており、社記によれば、重忠公は菅谷に居住中に農工商の民を大変いたわったためその死を悼んだ民衆が、承永一克年(貞永元年・一二三二か)、重忠公の命日である六月十二日にその御霊を勧請して当社の末社として祀ったものという。また同じく末社の津島神社は、天明六年(一七八六)に、当時領主であった猪子佐太夫が自分の崇敬する尾張国(現愛知県)津島町に鎮座する津島牛頭天王社の分霊を祀ったもので、元は市神として字東側の路上に鎮座していたところを、明治四年に字西側に移転した。ところが、明治二十三年の大大で全焼したため、同四十年七月九日に当社の境内に社殿を再建して遷座し、当社の境内社として祀られるようになり、毎年にぎやかに夏祭りが行われている。(「埼玉の神社」より)


菅谷神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)