志賀八宮神社。比企郡嵐山町志賀の神社

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志賀八宮神社。比企郡嵐山町志賀の神社

志賀八宮神社の概要

志賀八宮神社は、比企郡嵐山町志賀にある神社です。志賀八宮神社の創建年代等は不詳ながら、貞観年中(859-877)に、小川町下里の八宮神社を総社として中爪・杉山・能増・越畑・広野・志賀・下小川・下里の八か所に建立された八社の一社で、畠山重忠の命により元久元年(1204)菅谷神社に合祀されたものの、寛文元年(1661)に菅谷神社から分離して復祀され、江戸期には志賀村の鎮守として祀られていたといいます。明治4年に村内の五社を統合し五柱神社・五社明神とも称しています。

志賀八宮神社
志賀八宮神社の概要
社号 八宮神社
祭神 天照大神御子五柱命・月読命御子三柱命・下照姫命・天照大御神・建御名方命・保食命・素戔嗚命
相殿 -
境内社 猿田彦神社、愛宕神社、天手長男神社
祭日 お手長様1月11日、春祭り4月2・3日、例祭10月16・17日
住所 比企郡嵐山町志賀1512
備考 -



志賀八宮神社の由緒

志賀八宮神社の創建年代等は不詳ながら、貞観年中(859-877)に、小川町下里の八宮神社を総社として中爪・杉山・能増・越畑・広野・志賀・下小川・下里の八か所に建立された八社の一社で、畠山重忠の命により元久元年(1204)菅谷神社に合祀されたものの、寛文元年(1661)に菅谷神社から分離して復祀され、江戸期には志賀村の鎮守として祀られていたといいます。明治4年に村内の五社を統合し五柱神社・五社明神とも称しています。

新編武蔵風土記稿による志賀八宮神社の由緒

(志賀村)
八宮明神二社
何れも村の鎮守にて、村持、
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稲荷社
保食稲荷と號す、保食神は稲荷の祭神なれば、たまたま此唱を得しなるべし。
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諏訪社
太神宮
以上三社共に村持。(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による志賀八宮神社の由緒

八宮神社<嵐山町志賀一五一二(志賀字清岩)>
志賀の西端部に当たる山の中腹にある当社の境内は、時折そのすぐ南側を走る東武東上線の電車の通過する音が聞こえるものの、集落から離れているために極めて閑静である。社記によれば、当社は貞観年中(八五九-七七)に、小川町下里の八宮神社を総社として中爪・杉山・能増・越畑・広野・志賀・下小川・下里の八か所に建立された八社の一つで、元久元年(一二〇四)九月十九日に畠山重忠の命により嵐山町菅谷の菅谷神社に合祀されたが、寛文元年(一六六一)に菅谷神社から分離し、現在の地に祀られるようになったという。
また、拝殿と鳥居に「志賀神社 五柱大神」と彫った社号額が掛かっているように、当社は「五柱神社」もしくは「五社明神」とも呼ばれているが、その由来については、『明細帳』に「従前五社明神ト唱ヒ五ケ所ニ鎮座在ス明治五年八月旧入間県庁ニ出願許可ノ上合併明治四年中村社届済」とあるだけで、具体的なことはよくわからない。しかし『風土記稿』志賀村の項を見ると「八宮明神二社 何れも村の鎮守にて、村持、稲荷社 保食稲荷と号す、保食神は稲荷の祭神なれば、たまたま此唱を得しなるべし、諏訪社 太神宮以上三社共に村持」とあることから考えると、『風土記稿』に見える五社を統合したものが当社であると考えられる。ただし、この統合は書類上のことにとどまり、実際は五社の祭祀に変化はなかった。(「埼玉の神社」より)


志賀八宮神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)