東昌寺。比企郡嵐山町菅谷にある曹洞宗寺院

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東昌寺。比企郡嵐山町菅谷にある曹洞宗寺院

東昌寺の概要

曹洞宗寺院の東昌寺は、長慶山と号します。東昌寺の創建年代等は不詳ながら、かつては長慶寺と号す天台宗寺院で、菅谷館の鬼門にあったと伝えられます。寛文年間(1661-1673)頃に僧能國藝大(寛文8年1668年寂)が村民孫右衛門と協力し当地へ移転、遠山寺第2世伊芳(天文15年寂)を勧請開山として、曹洞宗寺院として再興、長慶山東昌寺と改号しています。当寺境内の観音堂は、徳川秀忠公の乳母を務めた正心院日幸大姉の持佛を、その子息岡部主人が当地に祀っていたもので、家臣の多田家が代々守護していましたが、昭和三年菅谷大火により焼失、改めて当寺で観音堂を建立し祀っているそうで、比企西国三十三所観音霊場26番となっています。

東昌寺本堂
東昌寺の概要
山号 長慶山
院号 -
寺号 東昌寺
本尊 釋迦牟尼佛像
住所 比企郡嵐山町菅谷9
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 東昌保育園



東昌寺の縁起

東昌寺の創建年代等は不詳ながら、かつては長慶寺と号す天台宗寺院で、菅谷館の鬼門にあったと伝えられます。寛文年間(1661-1673)頃に僧能國藝大(寛文8年1668年寂)が村民孫右衛門と協力し当地へ移転、遠山寺第2世伊芳(天文15年寂)を勧請開山として、曹洞宗寺院として再興、長慶山東昌寺と改号しています。

新編武蔵風土記稿による東昌寺の縁起

(菅谷村)
東昌寺
當寺元は長慶寺と云、古城の鬼門にあり、其頃の開山を傳へず、後寛文の始、能國藝大と云僧、村民孫右衛門といへるものと謀て、今の地に引移し、長慶山東昌寺と改め、曹洞宗、遠山村遠山寺の末となり、再興の功は則本寺二世幻室伊芳にゆづり、これを勧請開山となせり、されば、能國藝大は寛文八年十二月十六日の示寂なれども、開山の僧伊芳は天文十五年二月朔日の示寂なり、本尊彌陀を安ず、(新編武蔵風土記稿より)


境内観音堂について

観音堂由来
当寺観音堂は本尊に千手千眼観世音菩薩を祭る。その初期は徳川家二代将軍秀忠公の乳母を務めた正心院日幸大姉(慶長十五年一月二十六日江戸城内にて没した)の持佛であった千手観音を、その子岡部主人が所領の地であった菅谷の地に一宇を建立し持佛の千手観音を祭り、母の菩提供養を行ない以後家臣の多田家に守護を任せてきたものである。
昭和三年菅谷大火により堂宇本尊は悉く焼失せり其の後昭和二十二年に假堂千手観音を拝請し、昭和六十二年に現在の堂を建立し、新に本尊世聚漢音龍頭観音一葉観音を寺族長谷川澄子が寄附並に西国板東秩父の百体観音を中島操夫妻が寄附されている。
天井には住職の希望により三十六体の観音像を描く。毎月十八日夕刻法要を行う。(境内掲示より)

東昌寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿